余り急がないで、ひとつずつ神の言葉の言われる意味を、
じっくり考えてみたいと思います。
1コリント1:18
十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、
私達は、神の言葉の中だけで生きる様に造られている。
神の言葉から外れたら、そこは危険地帯。地を這う動物
満載の世界。”神殿”=神の家=神の宮=自分に穴が空いて、
別ものがうようよ侵入して来る。でも、音を立てないから
気がつけない。侵入されても気がつけない。
人の言葉に照らし合わせないで、常に神の言葉に照らし
合わせて考えれば、音を立てない動物に気がつける。
それが神に造られた人間の姿、デザイン。
考えて行けば分かる。全ては神の言葉=神御自身により
出現した。全ては神の性質=言葉で綴られている。
世界の全ては、神の言葉で綴られている、書かれている。
言葉=神と書かれている。オリジナル聖書に。
神の言葉の中だけで生きる時、自分の本当の姿に
マッチするから、ナファーシュ。安息。
神の言葉の中だけで生きれば、本当の自由を体験出来る。
本当の喜び溢れ出る。本当にデザイン通りを生きる事が
分かれば、簡単に出来る事と分って来る!
私達が悲しみ痛みを体験するのは、神のデザインとは
ずれた時。
”セパレーション” 誰かとの隔たり、分離、誤解、
コミュニケーション取れない、相手の言う事、
自分の言う事、お互い聞く耳持たない、
分かり合えない、通じない、仲違い、行き違い、離れる、
皆が別方向を見つめている、別れるそう言う事を体験すると、
悲しい。神のデザイン通りではないから。
神の言葉から外れたら、全ては別方向へ散り散りバラバラ
勝手に離散して行く。だから世界はたくさんの教えで
分裂しているのでしょう。
詰まりそれは、神のデザインの一体、向き合い育む
関係とはズレているから、痛い。
理屈ではなくて、性質=デザインがズレを、悲しみ、
痛みとしてはっきり体験するから分かる。
神の言葉の最初に書かれている、”厳重注意”
神の言葉通りに生きよ。
神の言われた通りに生きよ。
そして、神の言われた生き方をガードする。
その大元は、食べる事だった。食べ物とその食べ方。
神の言われる通りだけ。言われた方法=神の意図通り
だけで食べる。
これは、窮屈や縛り付けではなく、本当の
自由。それを体験するため。安全地帯に留まるために。
たかが食べ物、されど食べ物。
神の言われる事は、単純にして普通の事の
中に、”食べる” ”取入れる”と言う事の中に、
重大な意味がある。愚かしく聞こえる。そんなの
重大じゃないよと思ったのでしょう。アダムとエバは。
内側に取入れる食べもの。
神のものだけ取入れる。
肉体と霊は一体で”生きる存在”であるから。
神のデザイン通りのものだけ取入れる。
車にオレンジジュースやワインを入れない。
ガソリンだけを入れたら走れる。それと同じ事。
デザイン通りの事をする。普通の事。
霊と体と切り離して考えなければ見えて来る。
神が何を忠告しているのか。
人の耳には、これ位と思う事が、実は重大なズレに
移行してしまった事をちゃんと考えれば見えて来る。
神の言葉を、曲げて、無視して、食べてはいけないものを
食べた。結果=分離、別離、隔たり、真実が見えない世界へ、
飛び出てしまった。
軽く考えないで、じっくり考えてみる。何を神が言って
いるのか?教えているのか?と。
神の言葉を無視して、考える、行動すれば、
神の真実が覆われる=別の目が開かれる=包皮に
覆われて神との関係、自分の本当の姿=神の似姿
相手の本当の姿=神の似姿、そして本来の関係
神と人との関係から飛び出てしまって、神のデザイン
通りではない、世界に入ってしまった。
それが、別離、分離、神と人と自分の本当の姿から
ズレた、飛び出た現実。
これ、ずっと考えて行くと色々な事が見えて来る。
神の言葉の中で思いめぐらす時、本当に様々な事
奥へ奥へ入って見えて行く。
続く