体魂心と言う言葉では書かれていない 全存在=ネフィッシュ=生きるものとされた | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イエシュアが生まれる大分以前、70人訳が出現する頃に

は、しっかり”ギリシャ哲学思考”、ヘレニズム哲学思想

人の成り立ちがバラバラの存在と言う言葉でヘブライ語

聖書が翻訳されてしまいます。

 

私達が、心とか魂とか分けて書いてある箇所を読むと、

人は、霊的肉体的とバラバラな存在として考えると

思います。一体=エハッド性のイスラエルの神の性質を

見ると分かります。複数で、一つ以上で全く一つの存在と

言う、私達の思想、思索の中には無い考えが聖書には

書いてあるのです。

 

ヘブライ語にはそんなバラバラな意識、コンセプト

は無いのです。

心も、レブ=頭脳と書いてあります。

 

感情、フィーリング、思い、心も本当は、”腎臓”と

と書いてある。詰まり=体=頭脳=心と言うもの

全部繋がっていて、切り離せないからです。

 

そして、人間は”ネフィッシュ”=全存在丸ごとで生きるもの

とされたと書かれています。

 

生きる事は、キリスト=イエシュア ハ マシア=トラー

とある通り、神のデザインした人間の生きる姿は、

トラーの中に書かれているのです。

 

詰まり”デザイナー”である方が、御自分のデザインした

人間の生きる姿を細部に渡り解説しているのが

”トラー”です。それ以外人間の生きる姿、

インストラクションはどこにも存在しないし、

書いてない。

 

そして福音書から黙示録は、永遠不変のトラーの解説、

コメンタリーが書かれているのみなのです。新しい別種の

年代の古い箇所に書かれている、神の言葉に勝る

より優れた教えなんてどこにも書いて無い。

同じ言葉、教えが書かれている。

 

何故なら神の言葉は永遠不変だから。聖書は創世記から

黙示録まで、どの箇所も、互いに相反する箇所なく、

一貫して同じ事を語り続けているから。

 

なぜ神の言葉、神の言われる事に反発を感じるのか?と

言う事を、まじめに真剣に考え始めてみれば分かってきます。

神の内なる声が聞こえて来ます。

聖書をちゃんとそのまま読んで、神の言葉が永遠不変と

言う神の言われる事を認め、受け取るなら。

 

反発感じる、ドン引きする、抵抗感じる原因は、

自分の生まれ育った慣れ親しんで来た事柄と、全く馴染み

のない、全く異なる、異物の教え=イスラエルの神の

教えだからです。

 

私達は、異教の神々の国に先祖代々育ってしまったと言う事

を本気で考えると分かります。だから、イスラエルの神の

言葉、教えが異物に聞こえる、抵抗感じてしまう、

それが、イスラエルの神の言葉だと言う事を

はっきり認識してみて下さい。

日本人が全く異文化の外国で暮らし始めるのと同じ事です。

馴染みない〜畳の生活じゃない〜!

 

その反応の基、それら全て自分基準の反応、判断なのです。

 

神の言われる事が、自分の慣れ親しんだ事にぴったり合って

いたら、神の言葉は、異物、終った、律法なんて冗談でも

発言しないし、思いもしないはずなのです。

当然よね〜神がそう言われるのは。ぴったしカンカン〜と

思うのではないでしょうか。

 

結局自分の都合、自分のルール、自分の物差し、自分の慣れ

親しんだ習慣、慣し、風習、文化、教え、自分の基準で

神の言葉を、物事を眺めて、考えているのだとはっきり分かる

ポイントでもあるのが、食べ物の教えです。

そして、全部の基本、生きる基本。聖書の始めの始めに

与えられた”教え”“警告”命の木=神の言われた事からだけ

食べよに繋がっています。

 

続く