福音=神の似姿の人が取り戻されている事実から生きる事。
神と同じ事を、神と同じ目で、神と同じ目線で見る。
神の似姿にされた人=神の様に”思索”、
選択、行動、生きる事が出来る頭脳が完全に取戻されている。
律法と呪いと言う翻訳の本当の意味、
”ヘブライ語の言葉”の意味を、全然違うものに捉えている
事が誤解の原因。
トラーは呪い、律法なんて原典聖書のどこにも書いてない。
トラー=神の言葉、インストラクション。
呪い=神の目から見て無価値、無意味、価値無い存在に
見なされてしまう。
神の意図、神の言葉、真実から外れた主張をして生きたら、
困難が訪れてしまう。それが呪いと言う意味。
神の言葉=呪い=イコール神の言葉は=神には無価値?
変な教えでしょう。本当の意味に真実に戻して、
考えてみれば、繋げてみれば、その教え、翻訳、解釈が
ズレている、変と分かる。
神の言葉は、永遠不変と言われる神の言われる事実に
全ての思索をまず軌道修正する。
神の言葉は変わると言う、人の教えに聞き入り、神の内側
の外側=エデンの外=神の外に出た意識で神の言葉を読む事
を止めたら、見えて来る!神の言葉の事実が見えて来る。
全くもって不適切な翻訳のおかげで、違う概念が
頭の中に植え込まれ続けてしまっている現実。
不適切な翻訳を基に考え出した人の教えが原因。
誤解が誤解を生じて世界に伝え続けられてしまっている。
机なのに、金槌と言う名で呼び、別の機能をする代物だと
誤解する様な事と同じ。
そして、2000年以降は、婚姻契約はイスラエルから
取り上げられて、今度は神は異邦人の手に契約を乗り換え
渡し、神はイスラエルを突き放して、今度は異邦人と
新しい契約を結んだのだとするこれまた人造神学の教え。
聖書をそのまま読めば、それが”偽”の教えである事は、
はっきり読み取れるでしょう。聖書の中に書いてある事実に
対して、神の言葉の事実、真実に対して、盲目状態=目が
塞がれてしまう、神の言葉を曲げて読んで居る証拠。
新しい教え、新しい契約が来たと言う人造神学。
新しいと言う原語の本当の意味は、再更新続けられる、
中身は永遠不変の同じ契約=トラーである。
その事実を世界には殆ど知られていない、知られて
いないから、語られる事もない、教えられる機会さえない。
み言葉を聞けない飢饉とは、神の言葉の事実を聞けない、
語られる事がないと言う事です。
神はイスラエルと結んだ契約を絶対に変えない。
もし神が契約や約束を変えたとしたなら、仮にもしそれが
事実だとしたら、あなたへの”保証” ”約束”も同等に、
まったくもって不確かなもの、いつ変更されても当然
ですよと言う事と同じだと気がついていますか?
コロコロ変わる神の七変化の事情により、
全部が揺らいでしまう危険な状態。
神は自由自在に、御自身の語られた事、言った事、約束、
保証を、宣言プラス文字で、天と地を証人とし、全世界に
向かって公に、歴史史上に最大限の印象を持って、
シナイ山=天の領域から宣言して書いてあるのに、
取り消すお方だとするならば、あなたへの約束、保証も
書かれているのに取り消せると言う主張と、全く同じ事を
言っている事に気がついて下さい。
人間の世界でも、互いに交わした契約書を勝手に
変更など出来ないのでしょう。考えたら分かる。
そしてトラーが終ったと言うならば、トラー=婚姻契約
そのものが終わりだとするならば、あなたは、神の内側の
外側に飛び出た危険地帯に追いやられたと言っているのと
同じ事だと言う事に気がついていますか?
結婚している人が、婚姻関係を終結し離婚届を出して
関係をゼロにする。互いに対する責任ゼロになる。
パートナーに対して、何の責任も、関係も無い、
解消する。
トラー=神の永遠の婚姻契約を自ら捨てるなら、イスラエル
の神と自分の関係は完全に破綻した状態になったと言う事に
気がついていますか?あなたは”命”を選びなさいと
神に言われているのです。
命=イエシュア=トラー=神デザインの人間の生き様を
選べと神が言われている。
神の側では契約を絶対に破らない。でも自分の方でそれを
破棄する行為を主張、唱えている事に気がついていますか?
社会的に互いに責任の無い関係に入ったと言う事実と
全く同じ事だと理解出来れば、それがどんなに危険な教え
なのか気がつけると思います。
イスラエルの神との関係に入った証拠=それがトラー
=ブリットなのに、それが終ったと言う人間の教えは
全くもってハチャメチャ、めちゃくちゃ。矛盾だらけ。
自分とイスラエルの神は、”トラー”=ブリットは破棄
されたので、関係の保証、根拠が何もありませんと
言って居る事なのです。
その主張、教えは、完全に変でしょう。矛盾だらけで
しょう。
トラー=婚姻契約が存在するから、神との関係に
入っている保証があると言う事なのに。
自分の頭で聖書に基づき考える人は、誰でも真実に気が
つける。
人の教えをかき分けて、神の言葉の事実に辿り着け
るのです。
私達は人間の教えに聞き入っているから、神の言葉と
相反する矛盾しているその非聖書的、人造の教えにさえ
気がつく事ができない。
聖書に戻らない限り、事実が見えて来ない、分からない
からです。
だから神の言葉だけに戻らなくてはならないのです。
続く