神の言葉の中だけで思いめぐらす | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエルの神のものの様に見えて、イスラエルの神には

属さないコピー、まがい物。

混ぜ物=人の造り出した教えと、イスラエルの神の言葉を

ミックス、混ぜて造り出した教え=それが宗教。

 

神の家の中で、主よ主よと熱心に言いながら、主に仕えて

いると疑いなく思い込んでいる、エゼキエル8章に

書かれている内容、実態。

 

中を覗いてフタを開けて見たら中身は、実は別物で

満ちている。

でも本人は気がついてはおらずに、イスラエルの神の家の中

で仕えているつもりでいる。

 

別物=トラーには指示の無い、様々なもので、神の宮を

満たし、飾り、汚している。汚れた動物を運び込み、

神の指定以外のタメー=汚れた食べ物を、平気で共に食べ

そして、タムズの神に向かって嘆き悲しむ=仕える。

 

いいえ、イエスさまに仕えていますからそんな事有り得ま

せん、別物なんか取入れるわけなどありませんと思う。

 

イエスさま=その実態はどこに描かれているのでしょうか?

 

WWYD=生活の全ての中で、別物と同化している可能生が

ある事さえも気がつかないまま私は生きていた。

 

トラーは関係ない教えだと教えられて来て、そう疑いもなく

思っていたから、自分の中に取入れるもの、教えであれ

食べ物であれ、何が汚れか、何が同化を分からないまま

取り込みながら生きていても気がつく事が出来ないだけ

だった。

 

プラス自分の生きて来た生活文化、習慣、食文化に照らし

合わせて全てを考えているから見えて来ないだけだった。

 

でも、神の言葉に戻れば見えて来る。

 

何が神の目から見て、タメー=汚れなのか。

 

トラー=そしてその解説の預言書、諸書にイエスさま丸ごと

が書かれている。

 

そこを部分的にでも、捨てて生きるとは、照らし合わせる

基準が崩壊されてしまっていると言う事なのです。

 

私達は、神の口から出る、ひとつひとつの言葉を

食べて生きる。

一つ一つの言葉=生きる上での全てのインストラクション

なのです。

 

私達は、人の教えではなく、100%寝ても覚めても

いつでも、神の言葉=トラーに照らし合わせ、思いめぐらし

をし私達の内側=神殿=宮を神の言葉だけで満たしている

状態で無ければ、完璧なはずの、神殿の壁に穴が空いて、

”穴”からぬるぬると別の混ぜ物の実態が

入りこんで来ますよと言う忠告が神の言葉なのです。

 

聖書の最初の最初に書いてある。

”ガードせよ!!!”命の木 エデンの園の中でガードせよ。

神の言葉の内側の外側に飛び出すなかれと。

 

照らし合わせは、人間の教えや、宗教や長年伝統で

語り継がれた宗教習慣や、宗教シンボルや宗教の言い伝えでは

無いのです。

 

トラーのみ。永遠不変の神の言葉のみです。