全ての事をしてもよい=もちろんこれも、トラーの中に
書かれている人間が生きる道の全てです。
まさか、全ての事と読んで、ありとあらゆる善も悪も
ひっくるめて全ての事と思うなら、
それは、聖書を曲げて読んでいると言う事は
分かりますね。
それと同じ=全ての食べ物=神の定めた全ての物
全ての事=神の定めた全ての事=トーヴ=神の
意図通り、トラーに書かれている人間の生きる道
の中での全てなのです。
でも、その全てをする事が自分に取って神の意図か
どうかは別の話である=詰まり自分の生きる道は、他の人
と全く同じではないと言う事。それぞれがそれぞれの
デザイン通りに生きる事を、解説をしている箇所なのです。
しかも、エジプトで虚しい努力をしてレンガを
積み上げていた。
振返ると、この世の路線に乗せられて、
レンガ=後になって見れば何の意味もない
人間のStrive=努力、偽の自己像、目標に向かい
努力重ねて来た事が何であったのか見えて来るのです。
イエシュアが昇天された後は、全て何でも全部OKになった
のだと思うのは、神の言葉=トラーが頭の中に全然無い、
異邦人の考えに過ぎないと言う事をまず知る必要があります。
あの免罪符的教え=許しが有るから何でもして良いのだ〜
どうせ罪人だから仕様がないのだ〜と思う、宗教の教えと
同じなのです。
私達異邦人は、所詮ヘブライの書=神の言葉に対しては
新参者です。トラーの中身を知らないのです。
知らないまま、読んでいる。
そして、聖書の福音書から黙示録をトラーの中身丸ごと
だと思わず、新しい教え=別の契約=別の教えに
なったのだと、100%勘違いを続け、その前提から
読み続け、解釈続けている。
異教の神々の世界で、教育をふんだんに受けて来た脳回路の
枝は、その教育の産物である、異教の神々の教えから物事を
見る事はとても得意、その中だけで考える事も特異。
でも、神の目から見る通りを見るには、
神は、神の言葉は永遠不変と書かれている通りの
大前提から聖書を読めば違う世界が開かれている事が
見えて来るのです。
宗教の教えは、本当に人間の教えをふんだんに混ぜて
違う世界を語っている事に、オリジナル聖書の
中身を知っていけば、はっきり誰でも気がつけるのです。
まず神の言葉は変わった、契約は変わった、教えは変わった
あなたは所詮罪人、罪の元が染み付いているんだと言う
考えを削除すれば見えて来ます。
神のされた完了の業を忘れさせる教えを捨てる。
それは、神の完了の業から生きる事を、疑わせた
あの地を這う動物の教えだからです。
トラーの世界のみを語る、聖書の使徒達、預言者たち、
パウロ、イエシュアの言われる事が理解出来て来る。
聖書に書いてある事だけに戻る!
聖書は丸ごと100%トラーのみをどの場所読んでも
書かれているのです。
ヘブライ人パウロはトラーから全てを話している事を
まず知れば、真実が見えて来ます。
トラーを否定した教えをパウロがしていて、
今や許しがあるから何でもあり、神の定めた
境界線=命の木以外から食べる自由が来たのだと
変な誤解から聖書を読み続けるのを止めれば、
神の語られる真実に、目が開かれて来ます。
どの時にも、神の言葉を曲げていけば、
私達自身が損なわれ、失われ、迷い出ると
書かれている通りの事が起こるのです。
続く