全ての事をして良いのですとは? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

全ての事をしてもよい=もちろんこれも、トラーの中に

書かれている人間が生きる道の全てです。

 

まさか、全ての事と読んで、ありとあらゆる善も悪も

ひっくるめて全ての事と思うなら、

それは、聖書を曲げて読んでいると言う事は

分かりますね。

 

それと同じ=全ての食べ物=神の定めた全ての物

全ての事=神の定めた全ての事=トーヴ=神の

意図通り、トラーに書かれている人間の生きる道

の中での全てなのです。

 

でも、その全てをする事が自分に取って神の意図か

どうかは別の話である=詰まり自分の生きる道は、他の人

と全く同じではないと言う事。それぞれがそれぞれの

デザイン通りに生きる事を、解説をしている箇所なのです。

 

しかも、エジプトで虚しい努力をしてレンガを

積み上げていた。

振返ると、この世の路線に乗せられて、

レンガ=後になって見れば何の意味もない

人間のStrive=努力、偽の自己像、目標に向かい

努力重ねて来た事が何であったのか見えて来るのです。

 

イエシュアが昇天された後は、全て何でも全部OKになった

のだと思うのは、神の言葉=トラーが頭の中に全然無い、

異邦人の考えに過ぎないと言う事をまず知る必要があります。

 

あの免罪符的教え=許しが有るから何でもして良いのだ〜

どうせ罪人だから仕様がないのだ〜と思う、宗教の教えと

同じなのです。

 

私達異邦人は、所詮ヘブライの書=神の言葉に対しては

新参者です。トラーの中身を知らないのです。

知らないまま、読んでいる。

そして、聖書の福音書から黙示録をトラーの中身丸ごと

だと思わず、新しい教え=別の契約=別の教えに

なったのだと、100%勘違いを続け、その前提から

読み続け、解釈続けている。

 

異教の神々の世界で、教育をふんだんに受けて来た脳回路の

枝は、その教育の産物である、異教の神々の教えから物事を

見る事はとても得意、その中だけで考える事も特異。

 

でも、神の目から見る通りを見るには、

神は、神の言葉は永遠不変と書かれている通りの

大前提から聖書を読めば違う世界が開かれている事が

見えて来るのです。

 

宗教の教えは、本当に人間の教えをふんだんに混ぜて

違う世界を語っている事に、オリジナル聖書の

中身を知っていけば、はっきり誰でも気がつけるのです。

 

まず神の言葉は変わった、契約は変わった、教えは変わった

あなたは所詮罪人、罪の元が染み付いているんだと言う

考えを削除すれば見えて来ます。

 

神のされた完了の業を忘れさせる教えを捨てる。

それは、神の完了の業から生きる事を、疑わせた

あの地を這う動物の教えだからです。

 

トラーの世界のみを語る、聖書の使徒達、預言者たち、

パウロ、イエシュアの言われる事が理解出来て来る。

聖書に書いてある事だけに戻る!

聖書は丸ごと100%トラーのみをどの場所読んでも

書かれているのです。

 

ヘブライ人パウロはトラーから全てを話している事を

まず知れば、真実が見えて来ます。

トラーを否定した教えをパウロがしていて、

今や許しがあるから何でもあり、神の定めた

境界線=命の木以外から食べる自由が来たのだと

変な誤解から聖書を読み続けるのを止めれば、

神の語られる真実に、目が開かれて来ます。

 

どの時にも、神の言葉を曲げていけば、

私達自身が損なわれ、失われ、迷い出ると

書かれている通りの事が起こるのです。

 

続く