17これらは、きたるべきものの影であって、
その本体はキリストにある。
この翻訳だと、ニュアンス印象がとても違うものに
なってしまいます。プラス、この裏にあるギリシャ語
要らない言葉が勝手に挿入されてしまって
いるのです。付けたしするなかれ!の神の言葉に
違反しています。
ある訳に、影に”過ぎず”と言うのがありますが、それが
要らない言葉です。
〜に過ぎずと言う言葉は、あたかも、仮のものと言う
意識を生み出すでしょう。翻訳はトラーの中身、
意図、真髄を知らない人達で訳されているので
翻訳の時に、分からない場合、要らない言葉を
付け足して、彼らの考えに沿った様に書き換え
られてしまう事件が続出しているのです。
影とは、目には見えない本体である実態=イエシュア。
目に見えないけれど同等の実態=影=地上に映し出される、
実態は全く同じと言う意味なのです。影というと、無くなって
要らなくなるものと言う意識が有ります。
でも、考えて下さい。本体と影は一体なのです。
実態、本体にくっついているので、影は消え去れない
のです。
実態が現れて目に見えたら、影が見えなくても
実態が分かると言う事なのです。
本体無しに、影もないのです。
この意味を分かれば分かります。
本体に影が付いている。シルエットです。全く
同等の内容=実態と言う意味で聖書に書かれて
居るのです。
肉の目では見えないけれど、実態を得ていると言う事です。
18あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とに
おぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。
彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに
誇るだけで、
天使礼拝=当時のオカルトに繋がる、これまた元はエジプト
そして、太陽神に繋がる教えです。天体を拝む。
天使を拝む。イスラエルの神に属さないものを、
信奉する。エゼキエル8章にも繋がります。
人が造り出した教えを、私達はイスラエルの神のものである
と疑いもせず信じている事、気が付ければ見えて来ます。
19キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。
このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とに
よって強められ結び合わされ、神に育てられて
成長していくのである。
20もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの
霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きている
もののように、
21「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に
縛られているのか。
さわるな、味わうな、触れるな?これって何の教えに
対して言っているのでしょうか?
トラーの教えではない事は100000%確実です。
人間の教えの事をパウロが話しているのです。
トラーの教えに触るな、味わうな?
神に近づくな、トラーの実態=イエシュアと、関係持つなと
言う教えに変身ですしょうか?
22これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や
教によっているものである。
人間の規定や教えと書いてあります。
ならば、これらが”トラー”の中身では無い事は
確実に明らかです。この様な箇所を読んで、トラーの
内容と勘違いして、トラー=それらの教えを聞くなと
言われているのだと解説されている場合もありますが、
屯でもない勘違いであり、真実では無いです。
全てのズレは、神の言葉=トラー=文字で書かれた
イエシュアを否定する事から始まるのです。
神が神の言葉=トラーは永遠不変と言われたのだから
それをずらせば、そこからずっとズレが生じ、
今の様な、トラーを否定する教えの方が主流になって
いる。気がつけば分かります。
私達は、永遠不変の神の教えを聞いているのか?
只の人の言い伝えを神の教えだと思い込んで
聞いているのか?と言う事です。