イエシュアは、永遠の中から地上のあの場所、イスラエル
御自分の国、御自分の民の国へ, 2000年前肉体を取って
現れました。
そして、人の間に生きたのです。
今まで、トラーの中身を教えられて来た人達は、
ミシュカン=神の家を通して、コバーンを通して、
いや創世記の初めから全ての中に書かれている、イエシュア
=救いが、地上に来られた事を、認識、確信した人達が
居たのです。
私達が、聖書を読んで、あの2000年前に来られたお方が
イエシュア=救いであると知るのと全く同じです。
イエシュアが隔ての壁を打ち壊しに来たと書いてあります。
でも世界の現実は、隔ての壁を打ち壊すどころか、
何重にも重ねて造られた”隔ての壁”を、今もなお造り
続けて居ると言うのが、現状です。
それは、イエシュアが教えられたトラーではなく、
別の教えが1世紀以降出現し、ローマ皇帝創作宗教の
パン種は、16世紀宗教改革以降も、私達の今見聞きして
いる教えの中にたくさん残り、パン種は完全に除去され
ないまましっかり飛び火し続け、膨れ上がり続けている
からです。パン種=宗教の教え、種の威力はもの
すごいものです。
神の言葉を否定して行く、神の言葉の真実を、
覆い隠して行く。
だから、世界は同じ一つの家族なのに、別々の教えを聞き
続け、別々の祝い日を祝い、それぞれが違う事をやり続けて
いる現象が1700年近くも続いています。
4世紀まで、イエシュアを信じる人達も
トラー、レビ記23章に書かれている日だけを、
神の定めとして、それを祝って来ました。
他の祝い日は、造られていなかったからです。
そして、イエシュア、パウロ、使徒達が生きた様に、
トラーのライフスタイルを保存していた。
ローマ皇帝の信じる”ミトラ教”=太陽神タムズの教えと
イスラエルの神の教えが混ぜられた後、別の祝い日が
出現したのです。
日曜日礼拝にイエシュア昇天後も、変わっていない事を
聖書から確認した内容を、これからUpしようと思いますが、
日曜日礼拝に変わった根拠とされている
1コリントや、使徒や、コロサイなどなど、きちんと読め
ば、日曜日礼拝に変更されたのだと、誤解している箇所こそ、
実はそこに書かれている内容は、日曜日礼拝に変わって
いない証拠としてちゃんと書かれているのです。
読み方を間違えているだけです。
まずは、大前提を変えない=神の言葉は永遠不変。
レビ記23章に書かれているものだけが、永遠に
神の定めの日、ミクラ コデッシュ=聖なる会合と
呼ばれる日なのです。
そして、シャバットは、完了の業=福音の根幹なのです。
何も付けたすものが無い事を、皆で喜び祝い、
全宇宙の創造主の前に、御座の前にローヤルファミリーの
一員として出る日なのです。
神の前で、神の与えて下さった全てを喜び、楽しみ、味わう。
食べて、飲んで、リラックスして。
心配事の全てを脇に置いて。誰が命を支えて下さっているのか?
いや、誰が自分の命を生み出し=神の似姿の自分を取戻して
下さったのか思い出す日。
罪人宣言し続けている、その教えをシャバット=止める。
罪人の教えは、その元は、グノーシス人間哲学=異端哲学
から来る人間の造り出した教え、宗教の教え。完了の業を
完全否定する教え。
人間の肉の目からしか見えていない証拠です。
こう言い換えれば良いのです。
私達は、神の似姿であるのに、エデンを飛び出し、
エジプトにて、偽の主人の奴隷になり、偽の自己像を学び、
この世の価値感を植え付けられ、そして、自分の本当の
姿が分からないから、肉の目が開かれたまま、自分を
そして他者を見る事を学習し続けて来ました。
でも、本当の自分=神の似姿の自分は神の中に永遠から
保存されて居た事実を、イエシュアがわざわざ地上に
2000年前に来られて、生きてそれを示して下さい
ました。
だから、罪人=ズレ人である人は、永遠に葬られて
いるのです。永遠から永遠に葬られている。
そして、本当の自分=神の似姿の人は、神の中に
永遠から保存されいる事実があるのです。
キリストの愛=トラー=婚姻契約の愛に取り囲まれて
いると書かれている通り、私達は、神のなした
一方的な業により、義=神の似姿が保存されている
と、はっきり聖書の至る所に書かれているのです。
今自分がどう行動出来るか、感じられるか、
信じられるかに関わり無く、神の完了の業=
私達の本当の姿は永遠から取戻されている
事実だけが、確実なのです。
あなたは”初めの愛=トラー”を忘れたと神が言う通り、
忘れてはならない。思い出す必要があるのです。
婚姻契約の姿を、一点一画でも取り除いたり、
付け足したり、人がしてはならない事を、
神の前に今一度再認識、再確認しなくてはならない
のです。
Shabbat Shalom