続きです。
誰から教えを受けるのか?
教えられる内容により、脳回路が全く違うものになる、
その違いも分かります。
どの世界でも、どの流派?なるものもの様に、
その教えてくれる教師、師匠、メンターによって
大分異なる教えと意識をインプットされます。
しかも、まっさらな頭に、ひよこ=赤ちゃんが教えられる
如く、初めて聞いた事が本当だと思い込む。
もし、古代に生きて、私達がパウロのそばに居て、
イスラエルに住んでパウロ達、使徒達が教えていた、
トラーの中身丸ごと、トラーのライフスタイル丸ごとを、
パウロから教わったのならば、決して西洋色たっぷり=
ローマ皇帝教の教えをふんだんに引き継ぐ教えなどは、
脳回路の片隅にも存在しない状態になるのです。
自分の中にある、様々な固定概念は、様々な教えにより
形成されて来たものである事を、認識する必要があります。
現に世界で、ただ聖書の中身だけ、そのままを教えられ、
そして他の人へそれをそのまま教えて、生きて来た人達は、
聖書を西洋宗教を信じる人達とは、全然違う捉え方をします。
つまり神学=トラーは律法、終った教えとか二つの福音、
二つの契約、二つの神の顔=時代ごとに働き、人への
関わりが違う神など、様々に私達が当然の如く信じている、
ただの西洋宗教の神学から派生した教えを、彼らの口から、
今現在も聞く事は、無いのです。
そしていくら、ヘブライの世界、トラー、ヘブライ語聖書を
ひも解く教えでも、西洋宗教神学の影響、教えを受けた
人達は、トラーさえも、同じく西洋神学の目を通して
解説しますが。
他に教えられた教師により、意識が形作られる例を、
上げて言えばこんな事です。
ヨーロッパ系宣教師に教えられた場合、もちろん中身は
カトリック=キリスト教ですが、禁酒なんて教えません。
聖書に、書かれてないし、聖書には、葡萄酒=祝福、
喜びの印として書かれていますから。
聖書には、お酒の取り扱い、摂取の仕方についての
注意事項はありますが、禁酒令などどこにも書かれて
いない。
まず、勘違いする箇所は、読み違えているからです。
論点が見えないまま、その一言だけを取り出して、
禁酒命令が書かれていると勘違いしている。
トラーには何と書かれているのか?それを基準に
全てを読めば、新しい箇所、特に書簡などその
地域限定の人達に書かれた、問題回答の論点が
見えて来るのです。トラーに書かれていない教えは、
聖書の最後の三分の1の中にも無い。トラーに無い、
突然新しい教えが出現する事はない。
イエシュア出現以降初めて出現し教えなんて無いのです。
清教徒の教えを継ぐ、アメリカ系宣教師に教えられた
場合、特に日本ですが、たくさんの清教徒の教えをする
人達が日本に来られて教えましたから、ジーザスを信じる
場合は、禁酒必須ですと教えたのです。人間の言い伝え、
考えを人に強要しただけと言う事が真実なのです。
しかも禁酒しないと、救われないとか、神の前に駄目な者、
認められないのだ、受け入れられないと言う意識迄
完全インプット。
それは罪悪感を生み出す、他ならないものです。
聖書の事実とは違う事を教えた。
続く