シャバットが曜日変更されたのだと誤解されている、
もう一つの箇所です。
使徒 20:7
週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために
集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、
しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけ
参考記事
まず、トラーに書かれていない教えの様に見える箇所は、
特にパウロの書簡での、ある地域の人々の諸問題へ応答する
ための回答は、その地域限定、その時期、その地域、文化、
風習、慣しの中に住んでいた人達への、トラーからの適用例、
アドバイスであり、全世界の全ての人には
当てはまらない事もあります。
何故なら、日本人に取って文化、慣し、風習の中で、
違和感ある、普通やらないだろう〜と言う事を、
外国人は平気でする、何も違和感無い。いやそれが、
彼らの文化では、普通の事が、日本人には
違和感ある事でも、彼らの文化の中では、違和感ないから
普通にやってもOK、誰にも反感買わないと言う事が
分かれば、理解出来ます。
例えば、外国では、家に土足であがるのが普通の世界が
あるけれど、日本で畳の部屋に土足で上がる様な事をしたら、
失礼ですよと、言う事と同じ事が書かれています。
世界の人全てに適用は出来ない、地域限定のトラーの
適用例をパウロがアドバイスしていると分かれば、
理解出来るでしょう。
それはまた別の時に書きます。
トラーに出て来ない教えは、ユニバーサルな教えではない。
トラーに出て来ない教えが、突然新約と呼ばれている箇所に
は新しい教えとしてなんて出て来ないのです。
書簡の中に、何が書かれて居るのか読めば、論点が
分かります。
こんな一カ所の下りを読んで、シャバットを、
日曜日礼拝に変更したのだとするのは、
西洋宗教出現後の、人間の神学を通して、
異邦人の理解で、トラー=聖書の中身を読んでいるから
なのです。
日曜日の昼間は労働日なので、仕事をしている
時間なのです。
それだけ考えただけでも分かりますけれど、日曜日の昼間
10:30に宗教活動のために集るなんて絶対に有り得ない。
しかも、シャバットは止まる日です。活動日ではない。
ローマ皇帝が造り出した宗教、そしてそのスタイルの
礼拝式をやる日なのだと、初めから思っている、
想像しているから見えないのです。
シャバット=止まる=家庭に於いてが
神のインストラクション。
そして、イスラエルには、日曜日集って活動する事を
出来る環境もないのです。週の第一日目の昼間は、
労働日、労働する時間だから集会する時間ではない。
仕事する日。止まる日ではない。働く日。
そして、私達が想像する様な、ローマ宗教が編み出した
スタイルのあの様な礼拝式なんてしないのです。
イスラエルでは。
シャバットと、ローマカトリックの制定した礼拝日の
過ごした方の性質自体が、全く異なる、全然違うのです。
そして、この土曜日の日没=週の始めの日にあたる、
グレゴリオカレンダーでも、これは土曜日の夕暮れです。
西洋宗教は、日曜日の昼間です。
西洋宗教が、出現して日曜日にシャバットを変更したのは
4世紀以降です。様々な事実の点を繋げると真実が見えます。
聖書には、日曜日礼拝に変更された事は書かれて
いないのです。
そしてイスラエルでは、日曜日は労働日なので、
日曜日ではないその時=土曜日の日没に集っている。
土曜日の日没に集るのは、理由がいくつか考えられます。
シャバットを閉じる儀式、”ハフダラー”をしている。
シャバットを終え、”シャバット”、神の完了の業から
週の6日の間を生きると言う確認の儀式がイスラエルには
あります。
土曜日の日没は労働時間ではないから集れる。
プラス、それと共に次の日の旅の出発に関して色々と
話し合ったと言うだけの事です。
旅=パウロに取っては、トラーを伝える事が仕事ですから。
シャバットでは、仕事や、勉学その他一切の事、
そんな話は話題にしません。
確固たる証拠=シャバット=止まる日、なにも要らない事で
会議したりする日ではないから、
旅の内容=パウロの旅の詳細に付いて話し合っているので
しょう。
多分この”パンを裂いて”と言う下りだけみて、
日曜日礼拝、西洋宗教の式典の中の聖餐式なるものを
しているのだと勘違いされるのだと思います。
西洋のカレンダーで考えたら、彼らは日曜日になど
集っていない。土曜日の日没に集っているのにも係わらず。
そして、ヘブライ人なら集れば、パンを裂いて食事を
共にするのは、普通の事。
続く