シャバットを太陽神を拝む日に変更、 例祭をトラーの教えを禁止する法律を造ったローマ皇帝 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

紀元後325年 ローマ皇帝コンスタンチヌスが

ローマカトリック教会の教えとして、

太陽神を祝う日に、シャバットを変更する様に、

また、レビ記23章にある例祭を別の祝い日に変更。

トラーに書かれている事を祝わない様に、生きない様に

法律で決めたのです。

国の法律として、トラーを否定する様に、制定、変更した。

カトリック宗教の教えを国の教えと認定した。

 

そしてイスラエルの神を祝う人達も、トラーのシャバットを

捨てて、日曜日=太陽神を拝む日に変更したのだから、

逆らう人に対しては、迫害、虐待、刑罰を課したのです。

イエシュアを信じる人々にシャバットを止めて、

太陽神を拝む日に変更する事を強要したのです。

 

2世紀以降に起こった、別の教えを取入れながら、神の言葉を

変形させて行って造られた、数々の要因の上に、

西洋宗教が形になり、トラー=肉体を取って来られた

イエシュア=文字で書かれたトラー=モーセの五書=聖書の

柱をどんどん塗り替える教えに変形してしまった足跡が

歴史の事実の中にあるのです。多くの人は、この事実を

知らないと思います。

 

神が神の永遠不変の仰せを変えたのではない。

人間が、神の言葉を、神の仰せに逆らい、変えてしまった

と言うのが事実なのです。

だから、もう使徒2章に有る様に天の現実が下りて来た様な

事が今は無いのです。

神の言葉に別物を混ぜたら、神が現れる事が出来ないから。

人が反応する事が出来ないからです。別の福音に走った

からです。

神=言葉なのです。この中に全てある。

 

当時の人達は、シャバットと例祭だけを祝っていましたから、

時のローマ皇帝の法律化した、国教=ローマカトリックの

教えに対して、相当の抵抗をして、命の危険にされされる、

迫害と刑罰に合ったのです。

 

そうしたらどうなるか?と、簡単に想像つくと思います。

迫害に絶えられない人達は、トラーを否定する事に同意、

賛同、迎合し、協調し、聖書ではないローマカトリックの

教えに、服従、同化して行った。

トラーが律法で呪いの教えであるから、イエシュアが昇天

した後、廃れたのではないのです。

人間=宗教=ローマが神の言葉を捨てる様にしむけたのです。

そして、イエシュアを信じる人々は散って行った。

神の仰せではなく、ローマ皇帝の仰せに迎合して行った

のです。

 

だから、4世紀以降はシャバットを祝わなくなり、例祭も

祝わなくなり、トラーに書かれている様々なライフスタイル

を生きなくなった、神の言葉を捨てた結果の出来事です。

 

これが事実です。神が、イエシュアが、使徒達が、パウロが、

新しい教えを造り出して、トラーの内容を変えたから

ではない。

イエシュアが来たので、古い教えを捨てたのではなく、

人間にトラーを捨てる様に強要され、トラーを生きれば

迫害されるので、同化、協調、迎合して行ったと言うのが

本当の事実です。事実を事実に戻して、聖書を第一として、

神の言葉の中だけから全てを考え見ると見えて来ます。

 

人間が、トラーに反対する=異邦人達が変えたのです。

 

ヘブライ人は、地の塩=契約を保存する人、世の光=神の

光=肉眼で見えない内側を照らす光を光輝かす役割として

神に選ばれた人達。

 

それまで、聖書にある通りに、全ての人達=イエシュアを

信じる人、イスラエルの神を信じる人達は、

シャバットを祝うのが当然の事だった。

 

4世紀まで、ヘブライ人、イエシュアを信じる人達、

ヘブライ人であれ、異邦人であれ誰一人、シャバット以外の

日を、祝う習慣なんて事さえなかった歴史の事実があるの

です。

 

この史実に注目して下さい。

 

聖書の神の教えが日曜日礼拝に変えたという

説を完全削除して、ローマ皇帝が4世紀に制定した

後、シャバットを祝う事を禁止し、日曜日礼拝に

移行した事実が出て来たとするのが事実です。

 

聖書の記述、事実とは違うものに変形されて、

今日まで世界に浸透してしまったと言う事に

瞼をめくって見て行きたいと思うのです。

 

ダニエル7:25

彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、

いと高き者聖徒を悩ます。彼はまた”時”と"トラー”と

を変えようと望む。

聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、

彼の手にわたされる。

 

エゼキエル 8:16

彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。

見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人

ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、

顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。

続く