日曜日礼拝に変更されたと勘違いされている聖書箇所 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

以前にも書いた、日曜日礼拝に変わったという根拠にされて

しまっている、誤解聖書箇所を上げてみたいと思います。

 

その前に、シャバットを捨てて、”日曜日礼拝に変更した

のは”ローマ皇帝コンスタンチヌス1世である事実をまず

認める、知る事が必要です。

聖書ではない、イスラエルの神の命令でもなんでもない。

 

カトリックの司教さま方も、シャバットを日曜日礼拝に

変えたのは、自分達であると、今ははっきりカミングアウト

している事実があるのです。やっぱりそうだったのか。

神の言葉は永遠不変と書いてある、聖書の事実を認めてない

結果、目の前に事実が聖書の中に書かれているのに、

盲目状態であったと言う事なのです。

神の言葉だけを信じると言う事に関して失敗してただけ。

人間がただ変えただけなのは、明らかなのです。

人がそう言わなくても、聖書だけに戻れば、事実を確実に

確かめる事が出来るのです。

 

人は、様々な形で、人の言い伝えを取り続け、

神の言葉を退けている事たくさんし続けています。

本当に悲しいかな。考えれば分かる。

その聖書とは違う教えを、公言し続ける事。

聖書とは違う事を、真実だと人の言い伝えを取り続け、

思い込み続けているからです。

 

偽の自己像宣言、神の完了の業を否定し続ける事も

とげの付いた葦を蹴る事と同じ。本当に痛い。

自分に全て返ってくる。神の完了の業完全無視している。

認めてない。

 

イエシュアや、パウロや弟子が造り出した、トラーとは

違う新しい教えと世界に浸透しているその教えは=

偽の教え=偽教師の教えです。神の言葉に逆らって

なんの特がありましょう?と言う事です。

 

イエシュアが、神が、使徒が、パウロが変更したのでは

ない、トラーの教えを彼らは一点一画も変えていないと

言う事実に訂正する。

 

そして、世界が神の言葉を退けて、人の教えの前に

ひれ伏した事が”シャバット”を変更した原因である事を

再確認。

 

しかも日曜礼拝が出現したのは、聖書が閉じられたずっと

後の4世紀です。300年以上はとても長いです。考えて

見れば、分かります。今から300年前の日本の事。

全然違う世界〜!自分の頭で情報を繋ぎ合わせて考えれば

真実が見えて来るのです。

 

詰まり、日曜日礼拝などは聖書の中には無い教えと言う事が

真実なのです。

聖書の中では、誰一人日曜日礼拝式=ローマ皇帝が

造り出した活動日を祝ってない。事実を繋げて行けば

見えて来る。真実と作り物の教えが識別出来る。

しかも、聖書では、シャバットとは、文字通り止まる日

何も付け足すものが無い事を思い出す日。

私達の想像の中に有る様な、西洋の礼拝式活動をする日

ではないのです。

 

ローマカトリック教会もシャバットを日曜日と変更した

その事実をはっきり今認めて、公に発表している事実を

念頭に置いてみて下さい。神の言葉を変えるのは、人間の

仕業です。

 

神の言葉は永遠不変!レビ記23章も永遠不変。

レビ記23章に書かれている以外の祝い日は、文化の国の

宗教の人間が作り出した祝い日と言うカテゴリーに

移し直さないとなりません。神の仰せと人の教えを、

混同して、同等にしてはならないのです。

 

以前に書いた記事です。

シャバットが日曜日になったのだと勘違いされている箇所

 

 

1コリント 16:2

 

一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、

いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、

わたしが着いた時になって初めて集めることの

ないようにしなさい。

 

こんな一カ所の下りを読んで、シャバットが週の第一日目

に変更されたとしている事がとても不思議です。

しかも、ここに書いてある指示は、週の初めの日に

シャバットをしてなんて書いてもありません。

 

週の初めに皆が集って、お金集めをしておきなさいとも

書かれていないのです。

それぞれの収入に応じて、週の最初の日に蓄えを集めておき、

パウロが来た時に皆がそれを持ち寄るとも考えられる

でしょう。

書いてある事以外の詳しい事はこの一説からだけでは

見えて来ないのです。

 

何が書いてあるのですか?と読めば分かります。

それぞれが自分の家で、週の初め日に自分の収入に応じて、

手元にお金を蓄えておき”という事だけです。

週の最初の日に、シャバットを日曜日に変更して、

西洋宗教礼拝式するために集る時、お金を持ち寄ってなんて

書かれはいないのです。

 

これは、私達が先入観から聖書を読んでいるとっても

良い例だと思います。

 

先入観=ローマ皇帝創作宗教が造ったあのスタイルの礼拝式

と言うもののやっているものだと思い込んでいる。

その礼拝式の中での、あの献金集めをしているのだと

勘違いしている。

それをこの場面と重ね合わせているのだと思います。

お金を蓄える=礼拝式で献金集めとなるのだと思います。

 

ヘブライ人には、あの様なスタイルの礼拝式や

まして、礼拝式の中での献金集めなんて想像も

つかないものなのです。

 

プラス、シャバットには、お金集め、お金、ビジネスの

話、活動の話、献金なんか募らないのです。

ローマ皇帝創作宗教の中の仕来りとは大分違うのが

ヘブライの世界=聖書〜トラーのライフスタイルの

世界なのです。

 

続く