シャバットが来たので、またシャバットに付いての内容を
書きます。
イスラエルの神=聖書の中”レビ記23章”に書かれている日
だけが、永遠不変の神の定めた日です。
それは、何が有ろうとも変わらない。
それ以外の日は、人間が造り出した祝い日です。
国の、文化の、宗教のそれぞれのカテゴリーがありますが、
どのみち全ては、”人造”の祝い日。
どんな祝日、祭日であれど、神が指定した日と、性質、内容、
意味合いが違う日です。
シャバット=神が七日目に全ての業を終えて、
憩われたとある事実があるからなのです。
この言葉の中に凄い教え、真実が詰め込まれています。
私達がどんな存在で、神とどんな関係に入れられているのか
が書かれています。そして、シャバットは永遠不変。
イエシュアが何曜日に昇天されようと、シャバットは
第五日目の日没から第六日目の日没まで。
その日は永遠に変わりない。
そして、その日=七日目は、活動日ではない。
私達が想像する様な、神の前に何かパフォーマンスして、
歌って踊って、何であれ、パフォーマンスお捧げして、
下から上への努力を見てもらう日でも何でもない。
全く逆。”止まる” ”シャバット”する日。
止まる。全ての努力。ズレた努力も含めて止める、やめる。
ずれた努力=自分の力で神に到達、近づく、認められよう
とするズレた事。
それが、祈りの努力であったり、宗教活動と言う努力で
あったり、自分の命に関して、人生に関しての、
思い煩いであったり、どんな形態=外見は神の仰せの様に
見えて実は、只の人間の努力を”やめる、とめる”永遠に
それらの、偶像礼拝的、神との関わりをやめる、とめる。
それを、シャバットで思い出す。
週に一度のリマインダー。皆で思い出す日。
あなたは、誰か?あなたの命を生み出したのは誰か?
あなたの命を支えているのは誰か?
あなたは、神の似姿で一週間生きていましたか?
そうではなかったら、元に戻ろう。本来の姿に戻ろう。
神の似姿の本当の自分にリセットして。そして、互いに向合い、
修復する日。
神と人とそして自分自身と本当の関係に戻り、修復する日。
何も複雑ではない。喜び、楽しみ、晩餐の中で、
美味しいごちそうを食べて、飲んで、喜び、楽しみの中で
主がどんなに良いお方なのか思い出す。
主の宮殿の御座の前に皆で参上。この全宇宙、世界の
創造主であられる方の前に皆で出る。
この日は、純粋に自分と家族のためのもの。
友人達とのもの。
それぞれの住まいに於いて、シャバットをしなさいと
書いてある通り。それだけです。何も複雑ではない。
宗教活動でもない。
ある方が、”私は律法主義ではないので、シャバットを
祝わいません!”と言うのを聞いた事があります。
多分シャバットが何なのか分らないからだと思います。
家族で主の前に特別な晩餐で、完了の業から生きる事を
喜び祝うのを律法主義?と思う。不思議な考え。
人間の造り出した様々な日を、祝うのが律法主義ではなくて、
神の定めた日に、神の定めた通りの祝い方をするのが、
なぜ、律法主義と思うのだろう?とっても変な教えだなと
思いました。
いやそう思わされる様に、私達はインプットされ続けた
からです。古い教えイコール、律法主義、呪い、縛り付け、
呪縛、終ったetc,etc.気がつけば、人間の教えに洗脳
され続けているだけ。
シャバットは、神の婚姻契約の中に入れられている
神の子らの特別な印なのです。
生きて表す印。そしてその中で、神が特別な出会い方を
しようと私達に今も語りかけて下さっている日なのです。
想像してみるのです。神は今生きておられる。今私達の内側に
住まわれている。そして私達も神の中に存在している。
そして、この対話を神が聞いている。今目の前で、
内側で私を取り囲んで聞いていて下さる。
そして、神も私に今語りかけて下さる。
オンタイム ライブで語りかけ続けて下さる事実を
思い浮かべて話をするのです。
神がそう言われたから、そうだと信じられる人は
幸いと書かれている。神が言われた事は不変なのです。
今日も同じなのです。
昨日も今日も永遠に同じとあるでしょう。
見ずに信じられる人は幸いと書かれている。
続く