レビ記 23:26−31 ”大贖罪日” 今年10月11日の日没から | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

レビ記23章には、主御自身が定めた、特別な主と人との

会見の日が書かれています。永遠不変です。

イスラエルだけではなく、神に造られた人全てに語られて

居るのです。

 

26 主はまたモーセに言われた、 

<主の御口から直接語られた言葉です。>

27「特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは

聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。

 

28その日には、どのような仕事もしてはならない。

これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前に

あがないをなすべき贖罪の日だからである。

 

29すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから

断たれるであろう。

 

30またすべてその日にどのような仕事をしても、その人を

わたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。 

 

31あなたがたはどのような仕事もしてはならない。

これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく

守るべき定めである。

 

32これはあなたがたの全き休みの

安息日である。あなたがたは身を悩まさなければならない。

またその月の九日の夕には、その夕から次の夕まで安息を

守らなければならない」。

 

イスラエル=イスラエルの契約の中にある人達全て。

諸外国、異教の地に住む人達はこの日は労働日であり、

全く国全体で休日ではない、完全に止まる事は出来ないの

ですから、その中でも”この日=ヨム キプール”が神に

呼び出されている日として思い出し、出来る範囲で主の仰せに

意識を向ける事をすれば良いのです。

 

”主の似姿”=トラー=神の婚姻契約に照らし合わせて、

どこがズレていたのか?自分と、そして他者と、そして

イスラエルの神との関係が、このトラー=文字で書かれた

イエシュア=神に造られた人間の姿=に照らし合わせて

なにがずれていたのか?を思いめぐらし、そして

ずれた場所から、神の意図通りの姿=トラーに描かれた姿に、

生き様に、起動修正、修復する。二度とそのずれた姿を生きない

決意をする日なのです。

 

1人ではなくて、全員で!!神に造られた子ら全てで。

 

イスラエルでさえも、今は神殿がありませんから

コバーンを神殿の中で捧げる事も出来ません。

そして、現代ですから、イスラエルの国の中でも、

働かなくてはならない人が居ます。病院で、発電所で、空港で、

養老介護施設で、ありとあらゆる場所で、働いている人はいる。

 

でも、その中で、この日が”神の定めの日”である事に

皆が意識を向ける事を、神は促されているのです。

 

だから、自分達の置かれた状況の中で、最大限に

主の言葉を生きればよいのです。

イスラエルの神が、あなた自身に今直接語りかけている事を

思い浮かべてみるのです。

 

神があなたに、わたしに言われている。今語られている。

今特別な日を、神が指定した呼び出し日にあなたに

語りかけている。

人がなんと言って居るのか?ではなくて、神が今語られている

事実に気がつくと分かります。

 

考えてみた事ありますか?イスラエルの神、全世界、宇宙

全ての創造主であるお方が直接今わたしたちに語りかけて

くださる。

 

わたしの声、言葉を聞く=シャマーして、その通りに応答

反応、思索、行動、生きる人。神の言われる事を聞いて、

そうすればあなたと特別な出会い方をしよう、したいと

神御自身が直接今言って下さっているのです。

 

遠く分けの分からない宇宙の果てではなくて、

私達の内側に今住まわれる=これ以上の近さは無い近さ

一体で居て下さるイスラエルの神。そしてその神の中に

私達も今共に居る。天の現実の中に今本当は居るのです。

感じなくても。

 

皆で神の御座の前に全員で出る日なのです。

 

神がモーセに言われたとある通り、神の声”=コル=言葉に

すっぽり入って、神の言われている言葉に意識を完全に

向ける。神の言葉の中に入り込む。

 

そうすれば、主が語りかけて下さいます。御言葉を通して、

様々な事に気がつかせて下さる。言葉=神自身=言葉を

通して、神が関わりを持って下さる。

教えてくださいます。特別な方法でアプローチして下さい

ます。特別な出会い、体験、うなずき、納得、発見を

させて下さるのです。

 

全ては、”神の似姿”に修復されるため。

シュバー=神の中に本来の姿で皆で戻り、癒されるため、

回復されるためです。

 

主がそう言われるから、特別な日=神の定めの日は、

神御自身の指定した日。

人が文化の中で、宗教の教えの中で造り出した祝い日、

特別な日とは全く性質が異なるものなのです。