ヘブライの世界 イエシュア パリサイの子パウロ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエルは毎日真夏日、多分体感温度は45度位
でしょうか。

こちらに来てから、まだどこにも出掛けないまま、友人達と
過ごしたり、仲間の引っ越しを手伝ったり、買物に行ったり
のんびりした時間を過ごしています。

今朝”男性軍団”は暑くなる早朝から”ハイキング”に。
私は、突然パソコンのチャージャーが壊れたしまったので、
街に”チャージャー”を買いに出掛けました。
暑いけれどそこら辺を、ぶらぶら歩いて見ようとちょっと
離れた場所に車を止めて街中を歩いてみました。

当然ですが、色々な人がいます。
アラブ系、ロシア人、そして、黒装束の”正当派ユダヤ教”の
人達。イスラエルだな〜〜〜と思う。
夏で暑くても、長袖長ズボンの姿の人達を大勢見かけます。

今は、近代的な街ですが確かに”イスラエル”。
ユダヤ色です。

ナゼレのイエスは、西洋人ではなくて、ヘブライ人”イエシュア”。
そして、パウロも生粋のヘブライのヘブライ、そしてパリサイ
の子と自分を称している通り。

そこが、西洋色に塗り替えられると曇って来るのです。

科学の世界でも、人々が見つけている真実が、本当は真実では
ない事がたくさんある事を知ります。
たくさんの事実を、わざと覆い隠している。

始めから誰かの”バイアス”=偏見、先入観、
”考え”を擦り込まれて、そこからスタートすると真実が
見えなくなる、覆い隠されてしまうのです。

もし、主の造られた世界、主の言われた言葉の意味とは違う
事を自分が語るとするならば、”神を隠してしまう”と言う事に
なると言う事が分かって来るのです。

パウロは、ガマリエル大先生の膝元で訓練を受けて、
イエシュアを信じた後も、パリサイの子と自分を称していた。
一体どう言う意味なのか?

遠い遠い古代のイスラエルに生きたパウロ像を 全く
真実の姿から切り離して、私達の頭、目から眺める
西洋化したパウロに作り上げてしまう事はいとも簡単です。

パウロが、ユダヤ人の”ベイト カネッセ”=シナゴーグと
訳されている本当は”家の集まり”を、想像するよりも、
私達のイメージにピッタリで想像出来る現代の”キリスト教会”
なるもののサークルを造り、その中心に生きてたのだと
思いますね。

でもそう言う”パウロ像”だとするなら、時代錯誤の人間の
造り出した勝手なパウロ像を造り出してしまう事になるのです。
現代の様な”私達の想像するキリスト教会”の中に居る
パウロだと誤解してしまう。

事実はそこにちゃんとあるのです。
”キリスト教”なる私達の現代の世界にあるものは、単純に
パウロの時代には存在しなかった事実が在るのです。

日曜日には礼拝で人が一杯になる十字架が屋根に
付いた西洋教会、カテドラル。そんなのイスラエルには無い。
しかも聖書の最後の三分の1、”新約聖書”とクリスチャンの世界
で言われてしまっているその部分、福音書や、書簡はまだ
存在していない。
だから、”新約聖書”なる箇所からの、説教や、メッセージは
ない。不可能な話だからです。

コワイヤや、特別賛美や、アナウンスや、献金集め
そして、説教者が最後に説教するその様なスタイルのものは
存在していなかった。
教会学校や、サマーキャンプや、クルセード。

ロザリオや、懺悔部屋や、バプテスマの洗礼盤やら
聖餐式=拝領の秘跡なるものや、それらのものはパウロや
使徒達の時代には無かった。
もちろん、Xmasやイースターの祝いも無い。
パウロや使徒達はそれらを祝ってもいない。

リバイバル クルセードや、奇跡ラリーや、
癒しのヒーリング クルセードなるものなども無い。

1世紀 使徒やパウロ達の時代には、それらは誰にも
経験される事は無かった。
現代のスタイルの”教会” そして様々な神学、教え
なるものは パウロの時代には皆無だった。

とすると、パウロの教えていたグループは何をパウロ達から
見聞きしていたのだろうか?と言う事になります。