使徒の続きから、パウロの書簡に関して、世間に誤解されて
読まれている数々の箇所を書いてみたいと思っています。
誤解する箇所を、誤解したまま読み続けて、それを他者に
語り続けるから、誤解が蔓延して、その誤解があたかも
事実であると認識されて行ってしまうと言う図式が
あるからです。
パウロは、西洋宗教の創始者ですとか、
パウロがトラーを否定して、新しい“宗教” ”教え”
”新しい福音”を述べ伝えたのだと、誤解している
その原因の数々を、見てみたいと思います。
真実は、必ず浮き出て来るのです。
そして、”事実“ “真実”に目をとめる、認める人達の中で、
必ず“永遠不変の事実”は、認識されて行くからです。
誤解、別の前提=聖書の福音は言ってみれば
”前期後期”2つの福音があるのだと言う、
勘違いの色メガネを外して読む時が来ていると思います。
救い=イエシュアは、永遠から存在するのです。
永遠の中に存在している!その事をじっくり考えてみる。
ヘブライ思索で聖書を捉える。
聖書はヘブライ思索で書かれているからです。
歴史線上に物事を眺めるのは”ギリシャ”
ギリシャが学んだ思想は、エジプトの思想そのものなのです。
全てのギリシャ思考=元はエジプト思考、エジプトで学んだ
人間の教えなのです。
聖書は一つで、相反する事柄などその中には書かれて
居ないからです。読めば分かるのです。色眼鏡外して。
そして、神の言葉は、神は永遠不変と神御自身が
始めからそう宣言しているからです。
それで十分なのです。誰もそれを否定出来ないのです。
神がそう言われたら、そうなのだ~。至極単純 シンプルだと
思うのに、どうしてこうも複雑になるの?て思います。
そして、聖書全体に渡り、同じくぶれずに、
そう書かれている事を、確認する事が出来るからです。
もし、パウロが”イエシュア”が肉体を持った人間として生きて、
丸ごとを体当たりで地上で教えられた=トラー、預言書、
諸書に書かれている事柄を、否定しているとするなら、
パウロの書簡は、聖書から削除されるべきものであり、
もともと聖書の中に入れてはならないものであり、聖書と
して認められるべきものではなくなってしまうからです。
パウロはトラーの中身以外の何ものも教えてはいない。
人の中には、間違った前提=古い教え、呪い、廃れた
排除された教え=トラーだと言う、屯でもない誤解が
あるからです。
排除、削除、訂正される様な言葉を、神が一度でも
神御自身の口から発せられたのだと言うその発想自体、
考えたら、屯でもなくズレていると分かるのです。
使徒21章にある、”ナジル人”の誓いを神殿で立てた事、
そして23章で、自分のラバン=大教師 ガマリエルの前で、
イスラエルの”議会で”パリサイの中のパリサイ人”と
宣言したパウロの言葉が全てを物語っているのです。
その意味が分かる人には~ヘブライ人ならそれを読めば
その通りに分かる。
パウロの宣言が何を意味しているのか。
100%トラーを生きる者である宣言を、しているからです。
行き当たりばったり、人の顔色伺いながら”嘘 偽り”を
その場限りを通り抜けるために述べているているパウロだと
するなら、主から特別なミッションを預かる事は、
決してなかったはずだからです。
特にパウロは、異邦人達に対してのミッションを授かった
からです。神の言葉を変形、付けたし、削除して
教える その様な人は神が選ばないからです。
気がつかないまま、世界は”神学”と言う人間の造り出した
教えの分厚い色眼鏡レンズを通して、
聖書を読んで来ているのです。
なぜそう言えるのか?
”神が永遠不変” ”神の言葉は変わらない”と神が
言われている言葉がその絶対的証拠なのです。
そして、イエシュアが地上に来られて生きて、語られた
中身は100%トラー以外ないのに、それを主が昇天
した後、教えは変化したのだ、もう私達は呪いから
解かれて新しい教えを生きる様にされたのだと、
世間は言っているからです。
これって全く聖書に書かれている事実とは、異なる事
聖書に基づき宣言出来るのです。
続く