そんなに難しくて ややこしい事ではないのに | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

シャブオートの続きは、まだまだあるのですが、
秋の仮庵の時に、一緒にモアデイム=”神が招集 呼び出した 
定めの時”の解説と共に、載せたいと思います。

聖書の最後の三分の1は、最初の三分の2の解説です。
聖書の土台、解説の中身は”トラー”モーセの五書です。
そして、10の言葉(十戒と訳されていますが、ヘブライ語の
本当の意味は、”10の言葉”)は言って見れば、
聖書に書かれている内容を表す、10の題目です。

福音書=人間の肉体を取ってこられた文字で書かれたトラー。
イエシュアのこの地上での記録

使徒 シナイ山で与えられた”婚姻契約”が、今度は使徒を
通して、全世界へ運ばれる記録。

書簡 イエシュアを信じる、諸外国 異邦人達への
”様々な質問” に対する、トラーからの適用例。

黙示録 全創造物がエデンに始まりエデンに終結、集結する
記録。

全て、中身はトラーのみ 永遠不変の神の言葉の解説です。

聖書が二つ、イエシュア ハ マシアが昇天するまで、
救いは無かったとか、昇天された後に、初めて人々の中に、
聖霊が住まわれたとか、別の契約、福音が到来したのだと
言う教えは、完全に人の教えが、オリジナルの神の言葉に
混ぜ物され、塗り替えられた物である事が、オリジナル聖書に
戻ると発見出来ます。

いや、所々不適切な訳や、付けたし、削除または、不具合がある
翻訳聖書を読んでいても、それははっきり分かります。

なぜなら、聖書の記者達、またそこに登場する預言者や使徒達
丸ごと100% ヘブライの世界のヘブライ人、トラーの命だけ
を生きる人々の姿だけが描かれています。

試しに聖書に書いてある事を、少しも曲げないで、
神の言葉は永遠不変、ヘブライのヘブライ思索、
ヘブライ人イエシュアの世界であると言う前提で
読んで見れば、誰でも、はっきりと分かると思います。

使徒の15章の続きとパウロの書簡に関して、どうも
勘違いして読んでいたのだ、だからパウロがトラーを、
否定して別の教えを解いていたのだと、誤解していた理由が
分かる箇所などを書いて行きたいと思っています。

人の教えは本当に、負えないくびきであると分かって来ます。
でも、トラーは至ってシンプル。

ちょっと我が家の中で、会議があり色々話し合っている所で
分かった事が有ります。

どんな種類のバイク=自転車に乗るか?どの道を走ったら
危ないのかと言う事を、話し合っています。

日本には、あまり”歩道”と言うのは有りませんね。
しかも、大通りを原付バイクが走っていたりする、
自転車も走りますでしょうか?

大通りは、本当に危ないですね。
日本には2車線以上片道がある道路は余りありませんが、
例えば2車線あるとすると、右の斜線の車が寄って来て、
左の斜線に近づくと、左の斜線の車がまた左へ寄った場合
しかもトッサに寄って来たら。
そして、もし自転車が左側に走っていたら引っ掛けて
しまう可能性がありますよね。

しかも、今は運転しながら、携帯や、ラインまでやる運転手も
居るんですよ。どう言う安全観念?と思います。

私にとっては車道は恐ろしいと認識する場所なのですが、
ある人達にとっては大丈夫さ~ みんな乗っているよ!
事故なんて見た事ないし~!て感覚しかないのです。

神に造られた命を守る。
屋上にフェンスを付けなさいとトラーに書かれている。
それは、全て私達の命を守るためです。

トラーは言って見れば、生活細部にわたる親からの
注意事項、インストラクションです。
傷つかないため、怪我しないため、破壊し合わないため、
主の意図通りの命の中に安全に生きるため。

言って見れば、”レヘン” 主の憐れみ=子宮の中に
神の中に安全に守られるためなのです。

保護ガード。何も複雑ではないでしょう。
親なら分かりますよね。どれほど子どもに言って聞かせても
時には、子どもはうるさ~いって思う。自分を守るための
全てを教えてくれていると言う事が分からないからです。

自分の好きにしたい。親の言う事は、厳しい規則、縛り付け、
面倒だと思う。
意味が分からない。
何でも自由、みんなやってるし~。
そう言う感覚なのですね。死んだ人の頭脳とは。

歩道を見ていて思います。
うちの前の歩道には、フェンスが建てられていて、
歩道と車道が完全に分かれている。

言って見れば、”安全地帯” 狭い道ですけれど、危ない
車から隔離され、安全に歩ける。
そうだ!トラーはそれそのもの。神の言葉=命の中に
安全に守られるため。

この世の旅路で、様々な危ない事が外の車道にあっても、
騒音でうるさくて、色々影響受けるけれど、でも
それから離れて安全に主の中に隔離されている事、
本当に実感しました。

何も複雑ではない。義とされるためではない。
神の似姿の人が、神の似姿で生きるためのもの。
それが神の言葉=私達の命を支える、
神の口から出る一つ一つの言葉により生きる様に
造られている人間の生業、姿、生きる道です。

続く