正確にその通りに ”イスラエルの神”の御顔=実態を表す 描写 伝える | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

5ヶ月ぶりに会うイスラエルの友人達とあれやこれや、
尽きない話をして、楽しい時間を過ごす。
生ける水の中、主の真実、真理の中=エデン=喜びの中
に居る事は、本当に互いを潤す事なのだと体感する。

世界で今起こっている様々な様子などを聞きながら、
色々と考えました。

主の時に、主は主の計画されている事を、主の意図通りを、
実行する事は100%確実だと言う事。

主の真実、主の本当の御顔、実態が世界に伝えられるはず。

世界は、教えられた来た”教え”=その神学を通して聖書を
眺めているけれど、一旦それを止めて、オリジナルに戻る
大切さが見えて来ます。

主の言われる事に焦点を必ず合わせる。
主の言葉は永遠不変!主は永遠不変!

神の言葉を、人間の教えに照らし合わせながら見る、考えると
必ず真実から屈折、曲がって行くからです。

今回先日まで居たとある国で、”ギリシャ語”の言語 
博士号をいよいよ取得しようとしている共通の友人の
お姉さんの話を話してくれました。
もちろん、”イエシュア”を信じる人ですが、様々なトラウマが
あり自分の中で、人生でこんがらがって居たらしい。

そのギリシャ言語学者になろうとしている友人の姉に、
こう話したそうです。

”聖書の中に”従う”と言う言葉は書いてない、
出て来ないんだよ!”

フパコー=声の下に来る 聞くだよ!!!

ヘブライ語では、”シャマー”
何れだけの人が、”イスラエルの神” イエシュアの顔を
正確にリプリゼント=他者へその通りを表現、描写、
伝えてないか分かる?

彼女は、ずっと縛られて来た。
従う従う 人に従え従えと教える。
従う従う 苦しいまでに突き進まなくては。。

どば~と涙が出て、泣き崩れた。
自分がどれだけその言葉に縛られて来て
イスラエルの神 イエシュアの温かい実態が分からなかった
のか。。。気がついた。

声のトーンが違う、顔が違う。
人間の教えが描く”イエシュア”像は、歪む。

私達は“イスラエルの神のとりこ”になる様に造られている。
だから、無理して頑張って気張って精一杯従う!ではない。

主の意図通りの姿に留まれば、花婿の顔を直に見て
その顔から自分の顔を反らさなければ、栄光から栄光へ
主の実態を反映させる様に造られている。

神の声の下に来て、神の声の中だけで、神の言葉、
神の声 言葉を聞くなら、その通りに生きれるから!

わたしの印象=この言葉を聞いたら うっと詰まる!
従わなくてはならない~どこまでも~!

でもそれって、イエシュアの御顔を正確に再現 
表現していない。

”聞きなさい!” 聞いて! さあ子供達聞いて!
可愛い子供達さあ わたしの言葉を聞いて!

聞いたら分かるからでしょ。
アバ主が言われている事が。
それほど単純!

その声、言葉は全て私達の命を守るため。
自分も他者も互いに破壊し合わないため。

何も複雑ではない。

神の元へ戻って来て! 本当の命へ戻りその中に安全に
”神の人の似姿”=婚姻契約の中に留まってと
言われるだけなのに。

人の教えは多大に複雑。
混乱する。苦しくなる。

でも主の言葉、主の真理は人を解放し、自由を得させて
下さるとは本当だと分かる。


第2コリント 3;6
神はわたしたちに力を与えて、
新しい契約(互いに主を知ろうと言わなくても分かっている
人達で構成される再更新された同じ契約)
に仕える者とされたのである。
それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。
文字は人を殺し、霊は人を生かす。

ヨハネ8:31-32
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に
わたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、
真理はあなたたちを自由にする。」

人を縛り付けるのは、神から出た教えでも、霊でもない事が
書かれています。
文字=人の教え=人を縛り付ける
神の言葉=人を生かす、解放する、自由と喜びを与える。
本来の姿=主の似姿を生きる事が出来る。