さて、使徒22から23章にかけて、パウロの悪い噂
=トラーを否定して、違う事を教えていると言う噂は
ちまたを駆け巡り、とうとうパウロは議会に引きずり出されて
証言する事になります。
使徒23:6にこう書かれています。
パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、一部はパリサイ人
であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、「兄弟たちよ、
わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子であるわたしは、
死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けて
いるのである」。
キリスト教の世界の教えでは、パリサイ派の人=厳格、
律法主義、当時の高慢な宗教家達の代名詞として使われ、
様々な誤解をされていますが、
イエスさまが戒めていた人達は、”ある一部の”パリサイ派の
人です。その場面で目の前に居る、イエスさまに挑戦し
議論している人達=パリサイ派の人と
言う事を、知る必要があるのです。
パリサイ派=全部のパリサイ派=偽善者、律法主義と
言う意味では全くないのです。
海外に住んでいる日本人が外国人に、”全く日本人は~”と
言われても、それは、日本人=総勢一億2千万人、
日本人全員がそうだと言う事ではないのと同じだと
分かれば簡単に理解可能です。
しかも、当時”パリサイ派”は、世間では、信頼厚く、
世間で高い評価、評判を得ている、善良な正しい人々で
あった事を知る必要があります。
さて、パウロがこの“議会”で、恩師”ガマリエル大先生”の前で
証言するチャンスが訪れたのです。
ガマリエルとは、当時のトラー学者 ラビですね。
ラビが何たるか。彼らはトラーを丸暗記している様な
歩く聖書みたいな人達です。
今日に至っても、ガマリエルは、尊敬されている”賢人”で
あるのです。
パウロのメンターである、このガマリエルの前でパウロが
言った言葉の意味は重要な意味を持つのです。
パウロが、自分自身がトラーを1ミリも決して否定する
事が有り得ない事を、証言するからです。
この言葉の意味が分かれば良いのです。
「兄弟たちよ、わたしはパリサイ人であり、
パリサイ人の子である。
επγω. Φαρισαι/ο,φειπμι ego Pharisaios eimi
エゴ ファリサイオス エイミー
パウロが、ガマリエル大先生はじめ、この議会の前で
言ったこの言葉は嘘ではありません。
彼らに、自分自身がトラーを100%信じ、生きる者で
ある事の証言、証明をするために言った言葉なのです。
ギリシャ語の現在形”わたしは パリサイ人である!”
パリサイ人=無条件、文句無し=まるごとパリサイ人である!
それがどう言う意味を持つのでしょう?
”わたし パウロは パリサイ人の中のパリサイ人”
モーセのトラーに100%忠実、信頼し生きる者であると、
彼らの耳にははっきり証言される意味合いを持つ事なのです。
それとも、パウロはその場限りの嘘を言ったのだとでも
言うのでしょうか?
続く