コーバノート=生け贄と訳されている本来の言葉の意味は
“近くに引き寄せる、近づく”と言うブライ語。
主の求めている、”人の姿は”=”生けるコバノート” 命のある
神との関わり、近づき方と書いてあります。
これ翻訳だと、本来の意図する実態、意味が浮き
上がって来ませんね。
”生け贄”持ってこ~いなんて言われるているみたいで、
何か自分で持ち出して主に捧げて、主にお伺い立て、
受け入れられているのか確認して、そして、やっと許されて
遠慮がちに、すみませんすみません何て駄目な自分と
縮こまって主の前に居るみたいな、ちょっと別の次元=
偶像礼拝の世界の関わりと何ら関係なニュアンスに
なってしまっています。
プラス、自分の状態=”主の似姿”なのに、パン種を抱えて
膨れ上がった状態では、”神の家”の中に、正常な意識で
入れない事は、人間誰でも分かります。
私達は、腹に書かれたトラーがある。
どこかで本来の姿に戻らないと、平常心に戻れない、
ずれたら謝らないでは居られない、これは誰でも
経験上分かるのです。
これが”レビ記”の神殿での、一連の儀式の意味の中心。
和解と修復、そして再び”元の状態”
喜びの中の関係に戻るそれを与えて下さっているのです。
土足じゃ~家には上がれない。
でも主の意図を本当に知ると、主が何を言われているのか、
見えて来るのです。
主の言葉は”蜜の様に甘い”とは、本当だと増々確信しています。
人を生かす、人を癒す、主の言葉、愛の中に虜になって行く。
本来の姿=主のデザインして下さった
主の似姿=主の様に考え、主の様に=イエスさまの様に
行動出来る実態=で生きれる様に変えられている事が
分って来る。栄光から栄光へ生きられる姿に既に
変えられている。
だから、地の塩、世の光と分かる。
地の塩=契約の姿を保存する塩=トラーの姿=イエスさまの姿
を、保存する人達。 世の光=人の目に見える光ではない。
主の”光” 人の命を内側から世界へ、照り輝かすあの光。
創造の初めに出て来た、あの肉眼では見えない主の”性質
=光”=エデン=喜び=の神の実態=性質=光を世界へ
伝える人達。
主は私達の”自分の手の業” 手柄で神を喜ばせようなんて
そんなのは、ごめんだ~ 要りません!と主が言われている。
いや、はっきりそう言う関わりをする人を”わたしはあなたを
知らない”と言おうと書いてあります。
関わり方が違ってしまうから。主の指定した姿とは違うもの
になってしまうから。それって宗教に変身してしまうから。
私達は、”主の似姿”で”主のデザイン”通りを生きるのが
本来の姿~とてもナチュラル自然ピッタリなのです。
それが主のデザインに沿った生き方。
頑張って生きると言うその教え、意識を外せば、見えます。
誰でも、主のトーヴ、意図に生きる時、喜び溢れる!
犬が犬だから、吠える。猫が猫だからにゃ~となく。
元の姿に戻っている事本当に知る、分かれば、
それで今生きれる様にもう変えられている。
それを生きる事が何であるか、
知って行く事が出来ると言う事。
福音=救い、購いとは、”主の似姿”の本来の自分が永遠から
実は取戻されている事実、それに気がつき、それに今生きれる
事に気がつきその実態を自分の中に、再所有する事なのです。
続く