人のために全てが創造された | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

古代中近東の異教の神々の宗教を信じる人の思考回路。
神のために人間が居るという教えです。

神のために人が居る。神が満足喜ぶために人が造られている。
その思考回路が、宗教、下から上への努力を造り出すのですね。

それって聖書とは全く逆です。
人が全てを神から与えられただけ。
そして、その命=神の似姿を生きる事には、選択権=
選ぶと言う自由が与えられている。

世界がどう造られたのか?
全宇宙、全世界の全てをまず主が造られて、最後に人を
造られた事でも分かります。

神の意図通りの美しい世界。オリジナルの美の世界を
人が堪能して、エンジョイ、喜び楽しむために
造られたと書かれている!!
一番の美は、主御自身を体験する事!

オリジナル原語、ヘブライ語に戻ると 創世記の3章
いやトラーの全てですが、3章の中に聖書のテーマが
凝縮されている。
主の麗しさ、美しさ、奥行きの深さ 凄い事が本当は
その中に描かれているのです。

主は”人”のために、この世界を造られた。
そして”人をヌアーフ=ぴったり心地よく、安息させる
ために”エデン=喜び 歓喜、神の中に置いて下さった
と書かれている。しかも、その“置く”と言う言葉が
もう 大事に大事に大事に置いて下さったと言う
意味!すご~い。

しかも、主が人を造られた時の、ナレーションの中身の
凄い事。陶器師の手で練られた、造られた言語なんです。
もう陶器を造った事がある方なら分かるでしょう。
ちょっとの指の置き方や、方向で陶器は瞬く間に
崩れる。だから、全存在を集中させて”造る” ”制作”する。
しかも電動ではなく足踏みで、陶器を造る台を回すのです。
古代は。全存在、全部の動き、思考が陶器それ一点に
集中している。
その主の意図がその言葉の中に込められている。
神の私達に対するその情熱、愛が伝わって来る。

そして、主の意図通り、主の手で生み出された”人”の
中に、”主が息吹を吹き込む”
“顔と顔を合わせて息を吹き込む”
遠くからではなく、顔の前に顔を合わせて、そして両手で
その愛する我が子を包み込んで、自分の命=息吹を
吹き込む。

御自身のルアフ=霊=息吹を吹き込む。究極の親しい
関係の中で生み出された命。私達の主との関係の
姿がここに書かれているのです。顔と顔を合わせる、
主の息吹=ルアフ=霊を頂いて生み出されて来た人間。
この関係の中で生まれでて来た。大事な大事な子。

主の命が全存在に流れ出る、溢れ出る。充満している。
ネフィッシュ ハヤ=生き生き生きる命として生み出された。
動物もネフィッシュ ハヤと呼ばれるのです。
でも、動物は”主の似姿”に造られては居ない。

全ての人は主に造られた。主に造られなかった人は
誰一人いなのです。全ての人は、主の”ルアフ”を吹き
入れられて生きるものとなったと書かれています。
そこに着眼すると色々と見えて来ます。

人はどんな姿で生きていても、失われて生きていても
本当は神の子 神に造られた人なのです。
それを、知らないまま、忘れて放浪している。コードレス
状態。電波に繋がっていない状態。でも電波はその人を
取り囲んでいるのです。主が取り囲んでいるから。常に。
気がつかないだけで。
でもどこか心の奥底では探し求めているのです。
誰もが、本当の自分を。本当の造り主を。
人は、DNAに神の似姿=トラーが刻まれているからです。

そして、主は、その美しさ、麗しさ、主との顔と顔を
相見えて結ぶ究極の親しい関係を、人が神の中=エデン=
歓喜=喜びを体験させてくださる
ために造られたと書かれています。

宗教の教えは、何かそんなのではなく”苦痛” ”重たい”
”難しい” ”困難” そんなイメージです。神の前で
悲壮な顔、しかめ面して 重たくなっていなくてはだめ
軽くては楽しくては駄目と思っている人は本当に多いです。

十字架を負うと言う言葉そのものがどしんとのしかかる。
でも十字架を負って下さったのは”主”であり、
ある特殊な人達=使徒の様に、実際主と同じ木に
かけられて処刑されたそれは特殊な例です。
それを体験する弟子達に直接言われた言葉が、
十字架を負うです。

ヘブライ語の中で、本当に顕著に発見出来る
驚くばかりの恵みの世界が聖書には描かれているからです。
いや、麗し過ぎて、美し過ぎて。立ち止まってずっと
そこに身を置いて、主の言葉抱きしめて考え続けてしまいます。
思わず。

他の異教の神々の教えは、全く逆です。
異教の“神々”のために人間が居て、命令する、人を使う、
自分に仕えさせる。

トイレに行くためにも人間に仕えさせる神々がいる。。
古代中近東の異教の神々の宗教を知ると分かって来る事が
あります。
笑ってしまいますが、“宗教”とは、実は、まさに
そのマインドセットなんですよ。

ご主人さまに、家来、召使いの思考回路。
近しい親しい関係ではなく、隔たりのある関係。
疎疎が無い様に、失敗がないように、不満を持たせない
ために、ご主人様喜ばせるために、
常に常に神経尖らせている。
あの放蕩息子のお兄さんがお父さんに対する気持ち。
あんな感じかも。

プラス古代の中近東の異教の神々と、イスラエルの神の
違いは何だと思いますか?

続く