”種無しパン”を食べる週は金曜日で終了しました。
同時にその”定めの時”を締めくくる=シャバットでした。
今年は、奇しくもシャバットとシャバットが、
本来のシャバット=金曜日の日没から土曜日の日没と
ピッタリ重なりました。
”過ぎ越”の時に、読まれる箇所が、出エジプトと
そして”雅歌”なのですが、何故”雅歌”なのか。
イスラエルの神の人々への愛=婚姻契約と言う捉え方で
読まれているからだそうです。
話が色々飛んで行きますが、この”雅歌”は、純粋に
神のデザインした”男女”=夫婦の愛、いやもう少しクリアーに
言えば、主のデザインした男女の”性愛”に付いて
語られているのです。
翻訳読んでも顕著に分かると思います。
古代中近東の、”詩” 聖書は多く”詩”の形態で
書かれています。
そして、“詩”の世界は、日本語の詩を読んでも
理解が難解なものがたくさんありますね。
“雅歌”はその言語の表す内容が性描写なのです。
いや”モデスト” 品が良い”表現”での描写なのです。
でもある言葉が何を意味するか、分かればそれが完全に
100%”男女の性”の世界である事は、明らかですし、
当時の人なら解説要らないまま”それが”男女の性愛”の
せきららな描写である事は簡単に理解出来るのです。
そして、ヘブライ語では顕著に分かるのです。
だから”ユダヤ人のラビ達も、これをイスラエルへの神の愛と
解説をこじつけたい。
そう解釈しようとしたのです。避けたい話題だから。
そして”詩”であり、プラス、その内容が理解難しい点は、
そこに書かれている言葉の多くが
たった一度だけしか、聖書に登場してこない言葉の数々で
埋められているからです。
聖書は、他の箇所では、初めにさかのぼり、”初めに出て来た
言葉”そして、その使われている”言葉”が、繰り返し繰り返し
使われています。特にトラーには、同じ言葉がたくさん出来て
表現されています。その同じ言葉が、聖書全体に渡って
同じ意味で使われているのです。
ですから翻訳読んで”愛”と言う言葉があった時、
”あのモーセの婚姻契約の中で使われている”愛”=アハバ”
神の愛はこの、婚姻契約の愛=アハバとしてずっと
書かれています。
ですから、クリスチャン達が日本語であろうと英語であろうと
ギリシャ語であろうと”愛”と言う時、知らずとも”モーセの
婚姻契約の中にある”愛”を語っているのです。
”性愛”の世界を解説するなんて微妙に避けたい、苦手な
テーマと多くの人は感じる。”性”て神に造られた麗しい
ものなのに、何か奥の間に閉じ込めて、余りあからさまに
話したくないですと、抵抗を感じる人もいる。
なんか恥ずかしいって思う。
これって別の目が開かれて”はじ”を、知ってしまった事にも
繋がってると思います。神の目からだけ見る事から、外れたら
全ては歪む。
古代のカトリックの中で、これを聖書から外そうとする
動きもあった。”性”が悪いと言う事ではなくても、
それが”聖なる聖書”に入れられているなんて不届きものと思う。
西洋宗教の世界では、御法度的な”領域”と意識している人も
多いでしょう。
オーガステインが、これを”性愛”として、解釈してはいけないと
”ルール”を造り出そうとした。
それくらい、微妙な意識で捉えられていて、多くの解説は
やはり、その路線なのです。聖書に書いてある通りの
ダイレクトな事実を、ゆがめて、曲げている。
いや~これは、学べば完全に”神のデザインされた男女の性の
世界”麗しい世界が描かれていてこの中に、”究極の親しさ、
神のデザインした男女の在るべき姿、どうやってお互いに
対する愛、熱心さを日々薄れる事なく、新鮮で、生き生きと
保てるのか、その秘訣が得られると言う事。
さて、雅歌のイントロはまたいつか解説する事にします。
今、“過ぎ越”=一晩で、そしてそれに続く”種無しパン”=
あなたはマッツア=要らないものが削ぎ落とされた姿=
神のエッセンス、似姿にされていると言う事を教える
1週間が終わり、”過ぎ越”の2日目から同時進行で、
”オメル”初穂を数える49日。過ぎ越から”50日目”
ギリシャ語では、50なのでペンテコステ、ヘブライ語では
”シャブオート”がやって来ます。
この時に”シナイ山”で、初めて神自ら書かれた”契約”の
板を与えられる。私達に対する”永遠の保証”、これを土台に
主と関係を持っている根拠を私達のために与えて下さった。
10の言葉=聖書の題目、愛の表現が綴られているのです。
そして、それは使徒2”シャブオート”の出来事に繋がるのです。
初めモーセを通して、イスラエルとそして一緒に脱出して来た
少数の異邦人に与えられた”契約”、それが”全世界”全ての言語を
語る舌=国民にも与えられている事を、使徒達が教える、
そして、地上に来られた”イエシュア”=救いを文字で書き表す
=聖書を書く”霊感”を与えられる。
天の現実が丸ごと降りて来た”力”=別の助け手=イエスさまと
同等の質=イエスさまが肉体的に弟子達の目の前、そばに
居なくても、主と同じ質の”別の助け手”を与えられて、
世界に何が運ばれたか?(別の新種のパワフルな霊では
ありません。同じ主=霊です。)
弟子=主の契約の命を生きる人達=トラーの中身~まことの
命を生きる人達を教え、訓練しに行ったわけです。
続く