しばらく、同じテーマで、続きを書いて行きたいと思います。
レビ記の幕屋での、2番目のコバーンに付いての、解説です。
しかし、何でコバーンの儀式なんて、しなくてはいけないの?
と思う方もいらっしゃいますね。
いや、私達は、罪の仮の許しのためと、教えられています。
これは、前提から、ズレています。
前提が、ずれたら、真相は見えません。
それを、原典聖書が語っている、神の教えに戻して、
知り直す必要があるのです。
神殿での儀式=これは神の知恵、教育ツールなのです。
私達は、主の前に悲しみも、喜びも、感謝も、嬉しさも、
感動も、賛美も何もかも、正直に打ち明けたい、
言い表したい、表現したい、
喜び踊りたい!存在なのです。
そうでしょう。愛する人に、何でも打ち明けたいでしょう。
誰かに、何かを差し上げたい!プレゼントしたい。
子供たちが、お母さんに心を、込めて、絵を描いたり
手紙を書いて、差し出す心!
自分の心の全てを、受けとって欲しい。
それです。
私達は、感謝や、感動、喜びを主の前に自由に、
心から表現する、その機会、場所を与えられているのです。
嬉しいでしょう~!
私達の心からの、悲しみ、喜び その叫び
訴えを、主はそのまま、喜んで受けとって下さる。
受け取り拒絶なんて、悲しいですよね。
まず、この粉!
最上の粉を、麦の穂から摘んで、挽く作業。
これも、礼拝の一部なのです。
畑から、最上の麦を刈り取って来て、その穂を丁寧に摘む作業。
その麦の穂がたわわに、実るまで、
丁寧に育てる行程も含まれているのです。
そして、その麦を、ひきうすで、押したり、引っ張ったり
皆で作業しながら、絆が深まる、喜びが高まる、
お互いの存在がそこで、引き寄せられる体験を
するのですから。
共同作業なのです。
コミュニテイの、喜びの共同作業なのです。
ゴロゴロひきうすの音を聞きながら、皆で話、歌いならが
思いが高まって、一つになっていくのです。
お互いの存在が、関係が,喜びのうちに、引き寄せられて行く。
主は、賢いです。本当に。
仲違いしてた人を、関係がぎくしゃくしていた間柄を、
スムーズに、喜びの内に、修復して下さるために、
こうして、色々して下さっている事が分ると、胸がいっぱいに
なります。
私達、主の中から飛び出して生きていた人達は、
互いを、傷つけ合う様に、なってしまっている事。
それに、細心の注意を払わずに、小さなほころびを、
修復する事なくどんんどん広がり、不信感、傷つき、憎しみは
倍増し、果ては、戦争になったりするのです。
小さな事も、放置しては駄目!
だから、日が暮れるまえに、リセット、謝罪、
修復が必要なのです。
主の小さく思える日々の教えを、ないがしろにする人は、
結局、命、関係を、破壊する事になるのです。
私達は、都会に住む人も多く、皆それぞれが、
自分の事に忙しく、隣は何をする人ぞではないけれど、
互いに対して無関心。
近所の人と、一年間一度も、口を聞かない、言葉も挨拶も、
交わさないと言う社会に生きています。
一人暮らしの、孤独死も問題になっているようにです。
共同体で生きる、隣り近所との、深い関係がある、
農耕文化や、生活に関して、ピンと来ません。
それも含めて、古代ヘブライ人の、
聖書に書いてある礼拝の様子、生活に思いを馳せるのです。
そして、捧げものの材料は、最上級の粉です。
捧げもの=コバーン=引き寄せるは、最上の粉=姿
私達修復された、新しい人の姿なのです。
そして、その新しい人の姿を、感謝の気持ちを
献上するのが、ミンハ=感謝のコバーンなのです。
新しい粉=私達の成り立ちの、エッセンスそのものです。
最上!!!! 私達の姿を表す物です。
プラス、その粉で造られるパンは、種なしパンです。
種=罪が100%そぎ落とされて、いや 存在しないと
言う意味なのです。
その姿は、染みも傷も咎もない、完璧な姿。
尊い、貴重な姿を,現しているのです。
そして、考えて見るのです。
わたしは、わたしとして造られた、神の意図通りの姿は
神の前にもう、それだけで、最高の宝、献上品なのです。
この社会で生きて行く、この世の価値観に沿って、様々な事を、
学習して行くと、いらないものを、たくさん身にまとい、
自分ではない自分をパフォーマンスし、どれだけやってるか
どれだけ、捧げているか、どれだけ、きちんと忠実に
集会に出ているか?そんな事に、注意、意識、エネルギーを
吸い取られて行ってしまうのです。
人間の組織、作り出した会合に、時間に遅れず、
もれなく出席する事が、主に忠実であると教える。
これこそ,聖書の教えでも、主を信じる事とも、
はっきり言って何も関係ないです。
只の人間の価値観、教えです。
見た目は麗しい、実は、人を縛り付ける教えです。
人から評価、関心を得る為に、回りの目に叶う、
その理想を演じ、疲れ果てる、別物になってしまう。
信じる人の間でさえ、競争ではないでしょうか。
この世の価値感と、どこが違うのか?と、思うものも
たくさんあります。
でも、主は違う声で、語って来ます。
”あなたは、わたしの目には、高価で尊い”と言われる。
余計な、飾りや、自分のパフォーマンスや、ごますりや、
努力、頑張りで、主を喜ばせよう、主に認められようと言う、
人の教えこそ、主との親しい関係に入る、邪魔をするものです。
主の意図した、姿 その姿で生きるだけで、私達は
主への 最高の献上品、生けるコバーン、捧げものなのです。
あれもやってない、これもやってない、祈り足りない。
こんな意識は、今では、エデン、神に属するものではないこと
その意識自体が、エデンの園から飛び出して居る状態に
ある事が、はっきり、分ります。
朝に夕に絶えず思い出すのは、神の教え、トラー
詩編1章にある通りです。
そして、その中で、一日中、主の声を思いめぐらす。
祈りも、神の意図、御旨に沿っているか、確認するために
するのです。
祈りこんで、ごり押しで、自分の願いを叶える、押し通すため
ではないのです。
これでは、偶像の神、偶像礼拝と、全く同じ意識、
思考回路です。
100%全ては主の御旨。
御こころの天になるごとく!その通り地にもなるようにです。
続く