ミンハのコバーン 染みも傷も咎もない姿を王様に献上 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

幕屋での一番目の捧げもの=オラー=立ち上るの、
コバーン=引き寄せると言う全焼の生け贄と言う翻訳は、
本来の意味を引来出して、読者に伝えていません。
オラーのコバーンも、2番目のミンハのコバーンも
両方私達自身、そのものなのです。

しかも、偶像礼拝的に神に関わる事ではない事を
教えているのです。
これを、持って来たから、怒りを鎮め、なだめて
喜ばせ、お恵みください図式の,関わりとは
全く違う事を、教えているのです。
ここが、人造神学と、神の本当の言葉、声と違う所です。

復習になりますが、オラー=全焼の生け贄と訳されている
本当は、”立ち上る””起き上がる” ”上昇する”と言う意味の
コバーン=引き寄せると言う意味が、原語本来の意味の、
捧げものと訳されているものです。

自分の本来の姿=修復された新しい人で、神の中、
自分の源である場所=神の息で生かされた、フルの状態
エデンの喜びの源、神の中、天の現実に、
今現在既に戻っている事を、オラーの染みも傷も
欠陥もない、動物が丸ごと焼かれて、火に焼べられ
神の中に飲み尽くされる、神ご自身が食べていると言う
表現で書かれています。
そして、その煙が、モクモクと立ちこめる様子を見て、
私達の肉眼で見えるこの煙が、肉眼で見えない天の現実に
新しい人で、今引き寄せられている事を、見せて
確認、学ばせているのです。
う~ん この世の神学と、聖書の教えは、相反している事が
トラーを読んで見ると、その意味を知ると分って来ます。

幕屋の中で、捧げられる2番目の捧げものは、
穀物の捧げものと訳されている、ヘブライ語では、
ミンハのコバーンです。
レビ記2章に書かれています。

原語では、ミンハ=感謝、Tributeと言う意味の言葉です。
ミンハとは、王様に捧げる贈り物なのです。
この捧げもの、贈り物を、王様に差し出し、
敬意、尊敬、偉大な誉れを讃えるために、そうするのです。
何か見返りを求めるための、ギフトではありません。
罪のなだめとか、許しとかそんな事でもないのです。

私達の中で、”王”という意味を想像しても、
ピンと来ませんね。
今のどこかの国の王は、私達と関わらないし、
会いに来なさいと、招待もされないし、
親しい関係も結べないし、私達の必要全てを
供給する人でもないのです。
しかし、聖書で語られている王とは、国民の必要を
供給する存在なのです。
守り、保護、必要を、供給する存在が、王なのです。
そして、その王様は、”わたしが偉い王だぞ!
あなたは誰だ!とふんぞり返っている王とは違うのです。
膝まずいて、私達の前に、何をしてあげる事が
出来るのか?と訪ねて下さる王さまなのです。
民数記 6 
バルーフ=祝福とは、膝と言う言葉と同じなのです。
ひざまずき、私達を、祝福して下さる王=神=王の王なのです。
そして、ヘブライ人の世界では、王=救い主=神なのです。
ですから、ダビデ王の役割は、神のように国を統治する、
正義と、神の契約の愛=トラーを通して、
統治する事だったのです。

このコバーンを通して、主は、一体私達に何を教えて
いるのでしょう?
全てのコバーンは、神の祭壇=神の家の食卓の上に乗せられ
それぞれの人が、それぞれの物を、食べる儀式なのです。
ミンハの材料は、次の通りです。
穀物の粉、オリーブオイル、そして、乳香と訳されている
ヘブライ語=レボナ、英語だとフランケンソンです。
なぜ、この穀物の捧げものが大事なのでしょうか?

古代中東の文化の中では、どんなに、肉が出て来ようが、
野菜が出て来ようと、パンが、出て来るまで、
何だか満腹した感じがしないと言うものです。
私達も納得出来ますね。
ご飯がないと、何か足りない感じ。
しかも、ただ材料を差し出すだけではない、
これを、焼いて差し出す。
しかも、最上の麦を刈り取り、穂を手で摘んで、
そして、それを臼で、ごろごろごろひいて、
粉にし、釜に火をかけて、焼くのです。
古代の文化は、食事イコール大変な労働と
そうです。
真心と、愛が詰まった行為なのです。
そして、その食卓に招くとは、本当に敬意と尊敬と
信頼と愛を表明する、”おもてなし”だったのです。
今は、スーパーに行くと、小麦粉売ってますし、
しかも、もう出来合いのパンなど手に入りますから、
そのプロセス自体が、文化そのもの、麦をひく音を
聞きながら、みなで井戸端会議、賛美しながら喜び
歌い、この準備をするという、場面を想像出来ませんね。
その労働、食事準備自体が、礼拝=アボダーなのです。

また、この2番目のミンハの捧げものを
王さまに差し出すとは、どういう意味があるのか?
ミンハのコバーンを王に捧げるとは、
どう言う意味なのか?
あの アブラムが、メルキゼデクに、十分の一を
捧げた事に繋がっています。

私達はこの”王”様と、契りを結んでいます。

と言う、表明でもあるのです。
そして、神の家のテーブルで食事をすると言う事は
究極の親しさの現れなのです。
誰とでも食事などしないのです。
そして、契約を結んだ後は、祝宴はつきものです。
強い絆で結ばれている、それを祝う、表明する
ものだからです。

レビ記の1章から7章は、辞書のようなものです。
聖書全体に渡って、このコバーンの名前が出て来たら
一体何を、意味して語っているのか、
この箇所の意味を、しっかり、深く知っていれば、
理解出来るのです。
でも、コバーンの意味を知らなければ、深いところ、
真相は、神の意図している教えは、分らないままになるのです。
だから、許され続ける罪人などと言う、西洋人の作り出した
聖書ではない、教えが主流になり、宗教の教えの中で
世界に語り継がれてしまったのです。

そして、間違った前提で、聖書を読んでいても、神の真理、
真相が歪んで、神の御顔を直に見る事が、出来なくなるのです。
だから、”わたしの顔の上に別の顔を、置いてはならない”
と神が言われたのです。
10の言葉の一番最初の言葉です。
それも、”私達のために!別の顔を置いてはならない。”
と警告しているのです。
私達は、天の祭司として、人間の作り出した神学、
教えではなく、神の御言葉=トラーを生きる、語り合う、
伝え合う、責任を、負わされているのです。
責任と言うと、重たく聞こえますが、
私達が本来の姿で生きる事、お互いのシャローム
欠けの無い健やかな姿を、ガ-ドする事、そして、神の真実、
真理、永遠の愛の契約=トラーを語り合う事を、
神の家の子として、任されているのです。

聖書は、ヘブライ人のヘブライ思索の、ヘブライ人により
書かれた、ヘブライ人の文化、背景を通して
書かれたものなのです。
西洋人による、反聖書的である、西洋ヘレニズム思索、
思考では、分り得ないのが納得出来ます。

でも、古代ヘブライ人の靴に、自分の足を入れてみて、
彼らの世界、思索を通して、書かれている内容を読めば、
分るのです。
もちろん、神により、目が開かれて読まなければ、
分り得ない深い奥義が沢山あります。
トラーを知らなければ、聖書の字面をなぞっても
結局は、深い意味は、把握出来ないまま、真意を知る事も
出来ないのだと、分ります。
その証拠に、私は、信じてから、長年!長い事、
聖書に本当は、こんなすごい真実が書いてあるなんて事、
思いも寄らず、聖霊に導かれて生きて、
聖書読んでいたつもりが、とんだ、ただの盲目だった事に,
今頃気がついているという訳です。
その連続、ショッキング状態とでも言いましょうか。
何て、分らないまま、ただ聖書を、読んでいたのか。
自己納得の、自己流の解釈の、ただズレていた事
山ほどだったことに、気がついて、その損失を嘆くと同時に、
主の素晴らしさ、本当のわたしの姿を、主との究極の親しさ、
生ける水に浮かぶ心地よさ、宗教の教えの呪縛から解き放たれて、
本来の姿で、生きる意味、心地よさを知らせて下さる
主の言葉に、渇いた骨が、生ける水を吸って、
神の息吹で生かされ、立ち上る経験をしています。

次回は、ミンハの材料 一つ一つの意味を
書いてみたいと思います。

続く