汚れた経緯で来た肉は,食べてはいけないの? ローマ14章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

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全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ローマ14章
1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。
その意見をさばいてはいけません。

2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、
弱い人は野菜よりほかには食べません。

3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、
食べない人も食べる人をさばいてはいけません。
神がその人を受け入れてくださったからです。

ここで、信仰の弱い人=まだ信じて日が浅い
よく、知識と吟味識別が、出来ない人の事です。
そして、それ以前に食物規定に、関しても、
神の側では、変更がないことを、記事にしましたので、
参考にして頂ければ、ありがたいです。

http://ameblo.jp/echad2010/entry-11537785072.html

http://ameblo.jp/echad2010/entry-11537792446.html

このローマ14章も、他の箇所と同じく、トラーの適用が
書いてあるのです。
ハラハー=トラーを、どう実際に生きるのか、日常生活で
どう適用、実践するかと言う内容です。
これは、聖書に、事細かく書かれていませんが、口頭
伝達されて、その仕来りなどが、保たれたり、造り出されて
来たものです。

私達の文化の中に、当てはめて見ると、分ります。
私達も,正月に、お重は何段にしようか?
新年だから、新しいお箸、食器にしましょうか?
誰が、どこの席に座るの?
おせち料理の種類は、どれくらいあればいいの?
鏡餅の大きさはどうする?と
それぞれの、家庭で規定や、仕来り、お決まりな事が、
違いますよね。
雑煮は、クリーアな、スープで、中に何を入れるとか、
鮭を入れるの?それとも、チキン?
関西と、関東では、違います。

ローマ14章では、そう言う様な、実際に、その例祭、
シャバット、行事をどう執り行うか、するかと言う、内容を、
話しているのです。
シャバットが、なくなったとか、食べ物規定が変わったと
言う議論、話し合いではないのです。

ヘブライ人の世界には、トラーを変えると言う意識は
ゼロで、全くない。あり得ないのです。
それは、異邦人ならではの、意識、概念、考え思想なのです。


では、何故、野菜だけ食べる人とか、肉を食べる人なんて
書いてあるのでしょうか?

これは、彼らの当時の文化を、知れば分る内容です。
2節で、全ての物を、食べて良いと信じる人=トラーの
食物規定以外食物でも、良い、何でも良い、
ではないのです。

食べ物は、コーシェル食の中で、何でも食べて良い
と、思っていると言う事なのです。
当然なのです。
それ以外、食するという、考えさえ、一ミクロンも
頭に、上らない訳です。
なぜなら、神の言葉が、絶対だからです。
私達は、別に教えになくても、ワニや、アルマジロや
そう言った物を食べようなんて、思わないですね、もちろん。
食べ物だと、思っていないでしょう。

ヘブライ人に取って、コーシェル食以外は、
私達に取っての、ワニ、アルマジロ、ゲテものと
同等意識。そんな物は、人間の食べ物ではないのです。
う~~~ 気持ち悪い! 食べ物じゃない!
彼らに取って、神の定めた、人間の食べ物以外は、
食べ物ではないと、普通に、思い、これは、永遠不変の
神の言葉。その点は、何があっても、変わらないのです。

では、ここで問題にされている事は、なんなのでしょう?
清い=清くない と言う問題点です。
これは、コーシェル食 対 非コーシェル食では、
ないのです。

1世紀の、当時の文化で、ミシュナの中に書かれている、
例えば、偶像に捧げた肉は? 偶像崇拝している、
異邦人の手から買った肉は、汚れているのか?
その、異教の神を拝む異邦人が、屠って、さばいた肉は
汚れているから、食べては、いけないのか?

当時の世界の、仕来り、もちろん、聖書に書かれていない
トラーの教師達が、作り出した、プラスアルファの教え。
ラビ的に定められた、方法で、動物を、清め、
屠る動物=清いと認められる。
また、その手順に従って、屠る、ラビ指定の
肉屋から、動物を買って来るなどなど。
そんな議論をしているのです。
だから、素性のしれない、肉は嫌だからと、食べない人も
いるのでしょう。
それに、神殿で、コバーンを捧げる時以外、
肉なんて、殆ど食する機会など、なかったのです。

私達も、分りますよね。
お団子もらったけど、これ、隣のおばあちゃんの仏壇に
備えてあった、お供えの団子だよ~と 言われたら
弱い人は、気にするでしょう。
”偶像に捧げた、団子なんて、汚らわしくて、食べれん。”
分りますでしょうか?
ピンと、来ますよね。
果ては、修学旅行で、神社仏閣参拝する、そこの、土産屋で
八つ橋買ったら、汚れているのかな~。
エスカレートすると、別の宗教の人が、調理した
食べ物かもしれないから、食べられない。
もう、どこまでも、極端に走る事が、出来ます。
神社のお祭りで、買った、お菓子は、汚れているのかな~
などなど。
それ以前に、異教の神の偶像?の場所に、参拝する
修学旅行参加していいのかな。。とか。
良いに決まってます。

でも、弱い人は、そんな事が、偶像礼拝と思う。
色々人の教えが、混ざり込み、自分は神に背いて
居る事をしてるのかな、と言う罪悪感に
陥る経験を皆しますよね。
それが、弱い人の意見、そんな事気になるのだったら
そう言う物を、食べないとしているのも、
それは、それで、自分の中で、主に対して、
汚れて居ると、思いながら食べる事が出来ないのだから
それも、今は良いでしょうと、パウロが言っているのです。

成人の知恵があれば、分る事なのですけれど、
信仰の幼子は、分らないかもしれないと、言う事、
それだからと言って、その気持ちを、裁いては、あおっては
駄目なんだという事。
知恵!神の声の中に留まれば、分ります。
本当は、そんなの、どうでも良いことなのだと。

そんな事言い始めれば、イスラエル以外の
諸外国に住めない事になる、果ては、世の中
出て行かなくてはならないと言う、言葉通りになります。

もっとエスカレートすると、近所に神社があるけど、
そこは、汚れているから、目をつぶって通るとか、
わざと、遠回りするとか。
人は、どこまでも、どこまでも、主の意図と
考えがそれて、どんどん外れて行く事が出来ます。

彼らの文化の中でも、複雑な事情が、存在した。
つまり、偶像礼拝する、異邦人達の中で、
その人達が、触ったものさえ、汚れていると
考えていた信者が居たからです。
だから、ペテロに、主が幻を見せたではないですか。

長くなるので、次回にその箇所を、書いてみます。
使徒11へ
続く