さて、聖書は、一つの書なのに、異端の教えの教師である、
マルキオンの,思想を取り入れて、二つの分断した、
聖書、旧約、新約と言う、タイトルを人間が勝手に
取り入れてしまった。
そんな事、決してしては、いけなかったのです。
神に対する、冒涜です。
神ご自身が、神の言葉は、変わらないと
言われているのに、2種類あるかのような、意識を
人類に放り込んだのは、この2つのタイトル
”旧約、新約聖書”と言う、異端者マルキオン
人造の神学のおかげです。
これだけでも、真剣に、追求してみれば、どこで、どう
混ぜ物されて、私達の意識が、別の領域に、飛び出し
その縄目に、捉えられて、そこから抜け出して、考える事が
出来なくなっているのか、気がつく、目が開かれる
きっかけに、なるはずなのです。
その新約と、今呼んでしまっている箇所で、
トラーと、相反するような事が書いてあると、思われる箇所も
翻訳する人さえも、聖書に書かれている、意図内容を、
深くは分らずに、訳しているから、慣用句をそのまま書いたり、
または、違う意味に、捉えて訳している場合が、あります。
しかも、ヘブライ語=ギリシャ語=を経てさらに
諸外国語にされた場合には、ますます、意味不明に
なってしまうのです。
そして、これが揺るがない前提です。
私達は、パウロや、弟子が、その書簡で、議論している
内容を、誤解して捉えている事です。
つまり、ヘブライ人が、トラーの教えを曲げて、
別の意見や、新しい教えを、編出そうとしている箇所は
聖書の中に、決して、一つも、一ミクロンもないことを、
前提に読めば、それだけでも見えて来る、
理解出来るのです。
神がそして、神に選ばれた、ヘブライ人である、預言者、
使徒達が、トラーの教えを塗り替えるなど、
天地がひっくり返っても、あり得ない事なのです。
なぜなら、彼らのミッションは、トラーに戻れ!
イコール、元の姿に戻った生き方が出来る!
もといた場所、エデンに戻れ!神の中に戻れ!を、全世界に
伝えるために、神により、たてられた人達だからです。
私達、日本人、外国人の感覚では、ヘブライ人の
トラーに対する、神の言葉に対する態度や、思い入れは、
理解出来ないと思います。
神の意図した通りに、神の言葉は、永遠不変と、
捉えているからです。
当時のヘブライ人、トラーを読んで、知っている、
教師達でさえ、人間的な、解釈を続けて、イエスさまに、
戒められている箇所が、聖書にたくさんあります。
しかも、神から直接預言者、使徒に選ばれた人が、
トラーを変更するような事をするとしたら、
それは、神ご自身から、追放になります。
そんな、事は、あり得ないからです。
もし、そんな事をしたら、その人は、即座に
退場!異端者!トラーを、曲げる、変える、捨てるものは、
神の目には、偽教師、偽預言者だからです。
私達は、ヘブライ人の世界を、知る必要があります。
とても、とても固く、神の言葉の重要性、
変えてはならないという、仰せを、ガ-ドするからです。
日本人でも、別の宗教になったから、正月祝わない~なんて、
まあ、変わった人なら居るでしょうけれど、それと、同じ位、
あり得ない事なのです。
神が、神は永遠不変、神の言葉も変わらない、
変えては、ならぬと言われた、言葉を、
知っているからです。
どういう事かというと、新約の箇所で、議論されている事は、
トラーの教えを外れて、別の意見を、募っている箇所は
ゼロ!なのです。全く無いのです。
これに、気がつかないと、聖書が曲がって見えてしまうのです。
私達は、トラーの教えを、塗り替えている議論だと、
思い込んで、その前提で、読んでいるのです。
これは、砂の上に建てた家です。真実ではない事は、
崩れるのです。
このローマ14章もその一つです。
キリストが、来たら、別の福音が語られた、
今までとは、違う、キリストの聖霊が来たと、
信じている場合、そのような人造思想、ヘレニズム思想
を、取り入れていては、聖書の真実が、プロックされて、
目の前に書かれていても目えない現象が、
起きてしまいます。
神の側では、何も変わってないのです。
太古から、同じ福音、同じ聖霊=神が、信じる人の中に、
どの場所でも、どの人にも同等に、住まわれていた、
同じ救いが、あったのです。
だから、太古から語り継がれた福音、一つの福音と
ヘブル書にも、書かれています。
聖書に書かれている、真実、事実が、たくさん
見逃されて、そして、封じ込められているのです。
人間の教えという、隠れ蓑に覆われて。
さて、まず パウロが、このローマ14章の箇所で、
パウロ自身の意見を、書いているのではないと言う事!を、
知らなくてはなりません。
ローマの、シナゴーグに集っている人々の、彼らの間にある
さまざまな、意見をまず、書いているのです。
パウロの意見では、ありません。
何の意見かと言うと、トラーの教えを塗り替えるかどうか
ではなくて、どうシャバットを、ガ-ドするのかに、
関して、書かれている、内容なのです。
私達は、ヘブライ人の、聖書の世界、”ハラハー”の世界を
知らなくては、ならないのです。
ハラハーとは、トラーをどう生きるかと言う、
細かい、適用、教えなのです。
つまり、正月を、祝う時、結婚式をする時など、
または、その他の、教えを、儀式を、どう言う手順でするか、
何をどう段取りするかどういう、手法でするか、などなど、
細かい規定がありますね。
それなのです。彼らの議論し合っている内容は。
トラーの教えを、する、しないと言うなんて、議論
事態、あり得ないし、そんな事は、話し合っても
いないのです。
最後に、パウロは、どちらの、側に付くのか、躊躇しています。
なぜなら、どちらの、場合も、間違いでは、ないからです。
弱い人=信仰の浅い、知識も少ない、人達の意見
強い人=信仰の強い、知識も豊富な人達の意見
そして、これ重要なポイントです。
この箇所は、シャバットを、守るか守らないか、なんてそんな、
次元の、話をしているのではないこと。
トラーを、生きるヘブライ人は、シャバットを、ガ-ド
するのは、当然の事としている事。
トラーを生きる事が、神の家の子達の、当然に姿なのですから、
神の声、仰せの中に、生きるのは、当然、ここは、絶対に
変わらない、揺るがされてない事を、知る必要があります。
彼らに取って、シャバット(プラス定めの時)を守ると、
Purity=清め=食べ物や、その他の事柄に関しての、クリーンか
クリーンではないかを、守る事は、
大きな二つの重要ポイントだったのです。
私達も、同じ、イスラエルの一つの神を、信じ、
一つの同じ聖書を、読んでいるはずなのに、どうして、
イエスさま、使徒、パウロの居た時代と、今とでは、教えに
こんな違いがあるのでしょう?
違いがあっては、変なのです。
どこで、変わってしまったのでしょう?
誰が、変えたのでしょう?と言う事を、考えると分ります。
ローマ14章 次回へ、続く