イエスさまが、来られたら、”定めの時”祭りを祝い、神殿で再び、生け贄が捧げられる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

祭りの時に、祈る、都上りの歌。
詩編は、ヘブライ人の賛美の書、祈りの書でも、
あるのです。
祈りの家=詩編、都上りの歌 全部繋がっているのです。
イエスさまが、祈りの家と呼ばれると、言われた事の中には、
もちろん、祭りの時の、全ての人と集って祈る、
この、都上りの歌、祈りも入っているのです。
祭りの中心!なのですから。
歓喜の極みなのです。
都上りの歌=詩編=祈りなのです。

事実、イエスさまが、統治される時が、来たら 
この祭りは、特別な意味があるものとして、
変わらずに、皆で祝う事になる!

それは、神の家の印 ”定めの時”=祭りを通して、
イエスさまの、死と復活を、もっともっと
深く、広く全世界に、表明するものとなるからです。

これの祭り”定めの時”が、第一のイエスさまの到来の、
影的存在、その意味でしかないとしたら、”定めの時”の祭りは、
イエスさまの、再来、統治の時には、意味がないことに
なります。いいえ違うのです。


それは、もっと、深い、広い、先へ、
完了の業、血潮の業を、告げ知らせるものに、
なるののです!
神の言葉は、永遠に変わらないのです。


ゼカリヤ 14:9
9 主は地のすべての王となられる。
その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。

イスラエルの神は、一つ=エハッドの神なのです。
分断の神では、ないのです。
全世界の王の王 主の主であるお方が この王の統治を
指して、この祭りを 祝う事になるのです。
クレッシェンドで、フォルテフォルテッシモ!に
なるのです。
強調の最大限の、表現の極みに、達するのです。

ペテロが言う様に、1ペテロ 2:21
イエスさまの生きられた足跡に沿って
私達は、生きるのです。

部分取りの、人の造りだした、教えや、自分の都合、信条、
思いではなく、神のトラーの中に、生きる様に、人は、
造られているからです。
それが、私達の姿だからです。
魚が、水の中に生きるように、造られているのと
同じ様に、私達は、神の言葉=トラーから、飛び出て
生きる様に、造られていないのです。
トラー=神ご自身の実態、そして、私達は、神に造られた
神の家の子供たちだからです。

そして、神のトラーで、造られた、全宇宙の、全世界の中に、
全ては、存在しているのです。
ここは、アブラハム、イサク、ヤコブ イスラエルの神
の造られた世界なのです。

神のルール、教えに従って、存在し、生きるように
造られているのです。

イエスさまが来たら、トラーの教えは終わりとは
まさに、この世の闇の、支配者の声なのです。
神ご自身が、神と、そして、神の言葉は、永遠不変と
言われているのです。

最初の最初、ヘビの嘘=神の声を曲げる、
神の声から、意識を反らせる、疑わせる。
この手口、しっかり、見抜かないと
ならないのです。


神の言葉は、永遠不変なのです。
これを、曲げれば、完全に、別の宗教に、様変わりします。
気がつかないうちに、そうなって行きます。

弟子もイエスさまご自身も、そして、パウロも、後にいた、
イエスの信者達も、みな、丸ごとトラーを、生きたのです。
聖書とは、トラーなのです。

イエスさまが、弟子、パウロが教えていたのは、
100%トラー以外の何ものでも、ないこと。
聖書に、書いてあります。
新約と呼んでいる箇所も、調べれば、全て100%トラーの
内容以外の、何ものでもありません。
否定しても、出来ません。
何故なら、神の言葉は、神の言われる通り、
永遠不変だからです。
トラー以外の、教え、福音なんて、存在しないのです。
もし、存在するとしたら、正しく、二心のなる、二重人格の
別の宗教の神です。

1 コリント 15:10月足らずの者と言うのは
ギリシャ語で”早く生まれた”と言う意味です。

異邦人に対しての、使徒である、パウロ。
将来、全ての国民が この祝いをするようになる、
その先駆けの人として生まれたと、言う意味です。
パウロが、全ての祭りを祝いを、
過ぎ越しの祭りを、祝いに、エルサレムに都の上りを、
して行ったのです。

祈りの家=神の家で、都上りの歌を、歌った、祈ったのです。
イエスさまの,昇天後も変わらずに、神殿で、全ての弟子、
信者達は、コバーンも同様に、捧げていたのです。

使徒 20:16
それはパウロが、アジヤで時間を取られないようにと、
エペソには寄港しないで行くことに決めていたからである。
彼は、できれば五旬節(シャブオート)の日には
エルサレムに着いていたい、と旅路を急いでいた
のである。

コリントでも、パウロは、同じ過ぎ越しを、
祝う様に教えたのです。

私達は、どのように聖書を、読んでいるのでしょうか?

目の前に、書いてあっても、人間の教えと言う、厚い幕が
かかり、書いてある通りにさえ、読めなくなっています。

1コリント 5:8
新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を
取り除きなさい。
あなたがたはパン種のないものだからです。
私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。

8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、
悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、
純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。

しかも、パン種がない=新しい人である自覚を、
以て、過ぎ越しの祭りを祝いなさいと
書かれています。

新約と呼ばれている、箇所に書かれてあるのです。
弟子、パウロ、信じる者達、異邦人も含め、
皆、イエスさまが、昇天された後も、神殿でコバーンを捧げ、
”定めの時”の祭りを、ガ-ドしていたのです。

私達は、勝手に自分の都合、信条、その時の気分で
神の言葉を、カジュアルに、変える、曲げる事を
決してしては、いけないのです。

私達の、まことの命が、損なわれてしまうからです。

この世界は、イスラエルの神の、造られた世界なのです。
神の教え、神の天体の法則、全ての時、その中に
私達が、造られているだけなのです。

人間が勝手に、作り出した教えに沿って生きる事は、
神の意図から、外れる、ズレているのです。

私達は、神の家の子。
ならば、神の家の子として、神の声の中で
神の真理の中で、神の光の中で、生きるのが
本来の姿なのです。
私達は、人の作り出した、教えの中に、生きるように
造られてはいないのです。

イエスさまが、再び来られたら、永遠の教え
祭りも、神殿のでの コバーンも捧げられると
エゼキエル書に、書かれています。

なぜなら、それは、神の家の流儀。
私達が、どのくらい、素晴らしく神に、造られているか、
神の命と引き換えるほどの、価値があるのか、
そして、既にもう、神の中に、天の現実に、
受け取られている、その事を、コバーンの儀式を
通して教えているからです。
生け贄儀式は、イエス様が来るまでの、仮免のため、
罪の仮の許しのためでは、ないからです。

私達が、聞いて来た、西洋人の作り出した、神学の教えは
必ずも、聖書にマッチしていないと言う事を、
学んで行くと、ますます、発見します。

注意深い学びは、必須なのです。
そして、細かい事が、全て今、分らなくても、
神の言葉は、変わらないと言う、前提を,絶対に
変えては、揺るがしては、ならないのです。