昨日の記事の続きです。
ヘブライ語では、神の霊は神の霊 一つの言葉です。
神=霊=子=父 どの名を、呼んでも、神ご自身の
全てと、繋がっているのです。
”山田太郎”さんと言う方を、山田サン、山ちゃん、太郎さん、
たろちゃんと、どんな名前で読んでも、山田太郎さんを、
指して呼んでいるのと、同じ事。
山田さんの、足の部分だけを、頭の部分だけを、呼んでいる
なんて、普通ないです。それと、同じです。
神のどの名=ご性質を呼ぼうとも、一つの神を、指している、
切り離せないのです。
切り離して考えるのが、
ヘレニズム分断思想=反聖書的なのです。
ヘブライ人には、この概念=一つの神は、すんなり納得
出来る。でも、私達は、西洋思想で、それが、中々見えない
一つの神意識が、分らない、一つの神意識を、ブロックされる、
思考回路を、持っているのです。
しかも、イエスさまは、”人の霊”と、人の肉体を、持って
おられたこと、忘れてはいませんか?
イエスの霊=人間の霊として、書かれています。
もちろん、同時に神であったこと。
神の霊=父=聖霊であった訳です。
不思議ですね。人間の頭には、理解不可。
時代毎に、違う、別の神の霊なんて、ないのです。
イエスさまが、来た後、始めて聖霊が下ったとか、
別の聖霊が、下ったと思っている。
原典に聖書には、その様には、書かれていないのです。
どの時点でも、信じる人の中に、神=聖霊は、住まわれていた
事が、至る所に書かれています。
さて、今は、まだ祭りの続きなのです。
今日は、シャバットですが、祭りも、
シャバットから始まります。
シャバットを祝うと言う事は、これは、神の家の子の
大きな印でも、あるのです。
他の神々を拝む人々に、7日目=完了の業
付け足すもののない、神の完了の業から生きると言う、
概念などゼロです。
古代の、ヘブライの世界で、そのイスラエル人は、
イスラエルの神を知っていた。
近隣国に住む人々は、異教の神を拝んでいた。
異教の神の祭司までいて、異教の神に仕える祭司達も、
聖なる者と、呼ばれていた。
イスラエルの神は、アバ家の子達に、世界で際立って
目立つ、特別の印を、数々与えて、
”わたしの家の子は、他の神々に、仕える人達と違う”
と言う印を与えて、神の中に、聖別して下さったのです。
シャバットも、その一つです。
今は、過ぎ越し、そして、パン種を入れない祭りが
今週の火曜日に終わり、過ぎ越しの祭りの日から、数えて
合計50日、実は、過ぎ越しの祭りの2目から数えて、
49日、7週の後にある、シャブオート(ペンテコステ)まで
、初穂の収穫を、数えると言う、7週間なのです。
神の仰せを、待ち望む、期間なのです。
今は、神殿もありませんし、祭司もいないですし、
動物のコバーンを捧げたり、私達、農作物を育ててないし、
イスラエルにも、住んでいません。
今の世の中の、この国の、この社会で、金土が、
まるまる休みで、社会全体が休みなんて、イスラエル以外に
無いです。
しかも、祭りの時に、国全体が、止まるなんて事も
ありませんね。
イスラエルでも、シャバットは、誰かは、働いています。
そうしないと、停電、他の生活機能停止になります。
だから、その中で、思い出す事が出来ることを、
思い出す、参加する。
太古からの、主の永遠の、教え、完了の業、
神の家の子に対しての、教えの中に、参加して、生きる。
私達は、旧約聖書と言う、人造タイトルからして
”これは、もう古い,いらない教え!”と言う、印象を
完璧に、刷り込みされて来ました。
すごいです。
刷り込みって、取り除こうと思わない限り、それが、
正しいか、正しくないか、関係なく、この規制概念を、
無条件に信じ込み、取り入れていて、取り除く事が、
とても困難です。
条件反射的に、旧約=律法=終わった=肉の業に生きる世界
と、勝手に思い込んでいる、いや、思い込まされて来たのです。
しかも、聖書は全て、トラーなのです。
トラーは、新しくされた人、変貌した人が、内住の神=聖霊に
より、生きる姿が、書かれているのです。
聖書に、トラー以外の、内容が書いてある箇所は、ゼロ。
新約=新しい教えと思って、読んでいる箇所も、実は
内容は、トラー100%。
とことん、原典、原点に返り、調べれば、分る事なのです。
先週もイスラエルの、シャバットの、聖書の学び
その週のトラーの箇所、それに繋がる、預言書、
新約聖書の箇所を、読んで学ぶのですが、先週の箇所の
レビ記を学びながら、ヤコブ書の話を、解説されていました。
ヤコブ書=まるごと、レビ記の中身です。
気がつかないまま、読んでいる、しかも、レビ記の内容を
分らなければ、理解出来ない。
トラーを知らなければ、本当に、新約聖書、
イエスさまの教え、たとえ話、そして聖書全体を、
トラーの理解なしには、決して、分りっこないと学んでみて、
痛感します。
部分的、理解、または、どうして、自分の勝手な解釈に
陥るのかが、よく分ります。
しかも、専門的な知識なしには、分り得ない事、満載。
現代ヘブライ語を話せる人でも、聖書ヘブライ語の世界は、
難解なのです。沢山の、言葉上での誤解があります。
現代ヘブライ語で使われる言葉が、すなわち聖書ヘブライ語
の中に、ある言葉と意味が違って、使われているからです。
これは、別の記事に、書かないと伝えられないほどです。
聖書=神の神聖なる言葉に対して、人は軽々しく、曲げて
多大な罪を犯している事。
あまりにも、神の言葉を、軽々しく、扱っています。
本のタイトルは、中身を表す言葉で、書かれています。
普通”スーパーマン”と言う、本のタイトルを見て、
”白雪姫”の話が、書いてあると思わないですね。
タイトル=本の中身を表しているのです。
聖書も、同じです。
この聖書の2つのタイトル、”マルキオン”と言う、
当時の”異端者”の教えを、取り入れ、完全に分断、西洋思想、
ヘレニズム思想=反聖書思想の、教えを、神の仰せに逆い、
聖書に,”旧約、新約”と、聖書にない言葉、概念を、
人間が、勝手に付けたし、載せてしまった過ちと、
それに伴う、偽情報の刷り込みの弊害を、今一度、
原点に戻り、考え直す必要があるのです。
今こそ、本当の聖書、神の言葉を、取り戻す必要が
あるのです。
人の、教えの混ぜ物、改ざんされた、様々な事、
塗り替えら得た、別の教え、祭りではなく、神の定めた
”定めの時”の祭りを、取り戻す必要があるのです。
なぜなら、それは、神の家の子達への、主の重大な
教育ツール、教え、特別な定めの出会いの時だからです。
神は、天体、月、日、時、季節を,支配されるお方なのです。
偶然など、ないのです。
そして、キリストの福音は、新しい福音ではないのです。
太古から語り継がれた、同じ福音なのです。
イエス キリストの福音=トラーです。
トラーは、神ご自身=イエスご自身=聖霊ご自身の
実態なのです。
原典聖書を、いや翻訳でも分りますが、色メガネを、
外して読んでみると、見えて来ます。
続く