これは、昨日の記事の続きになります。長いので、
途中で、切りました。
神の声に従うと言う事は、シンプルでもあり、シンプルだから
こそ、ないがしろにする事も、簡単に出来るのです。
神の声に逆らう事は、いとも、楽ちん~簡単に出来ます。
カーテンを開けるほど、簡単に出来てしまいます。
でも、気がつかないうちに、私達の本当の姿が、
命が、損なわれて行ってしまうのです。
暗闇の、この世の支配者の、狭い、苦しい、悲しみ、束縛
の場所に、閉じ込められてしまう。
部分的にでも、閉じ込められたら、喜びが、溢れて来ない。
自分が死ぬ。
主の意図した、状態に、喜び、楽しみに満ち溢れて、
生きる事が、出来なくなって、しまうのです。
本当の姿、本当の自分が、死んでしまう。
聖書を、普通に読んでいても分ります。
神の言われる事を、そのまま聞き、それを、聞いた人がどう
行動するか、しないかが、くまなく書かれています。
殆ど、全てが、行動,動詞の世界ではないですか。
そして、ここが、分岐点。
トラーを、”新しい人”になっている事が、何たるかが、未体験
理解未知、分らないまま読めば、とことん律法主義に陥る事が、
容易に、分ります。
その事に対する、注意も、沢山書かれています。
パウロの、書簡など、まさにそれですね。
1コリント 5 ”あなたは、マッツア”と、書かれている。
ローマ6は、まさに、マッツになった姿が、書かれている。
なぜなら、これだけしていれば、oK、とことんしていれば良い
と、知識の木から、食べる食べ方で、命の木の,トラーを食べ、
それで、屯でもなく、神の意図から、ズレた事を、し続ける
人達への、警告も、イエスさまは、たくさんされている事が
書かれていますね。
”あなたがたは、~と聞いているが、わたしは、~と言う。”
”安息日に人を、助ける事が、良いのか、
見捨てるのが良いのか。”
普通に考えて、分る事さえ、分らなくなって行く、律法主義に
陥る人間の、姿です。
律法主義=自分の作り出した、トラー、教えを、自分の努力で
クリアーして行く事。
本来の生き方=天から、雨の様に降りそそぐ、神のトラーを
頂いて、受けて、それを、生きれる子供たちの姿。
ガソリン満タンなら、無理なくスムースに、走れる
聖霊が内に住まわれ、私達も、神の中に、いるなら、
水の流れに乗り、神の力により、神の意図、御心通りに
聖霊の水に、どっぷり浸り、浮かんで、生きれるのです。
なぜなら、人は、神の中で、そのような、状態で生きるように
元々造られているからです。
元の姿、あるべき状態に戻った!が、血潮の業、力!なのです。
偶像礼拝=神に対して、偶像の神に関わる事と、同じ方法で
関わる。自分の行い、努力、手の業で、神を、なだめ、
アピールして、その結果、報酬、お恵みたくさん頂戴の
図式です。世に言う、“献金沢山=倍返し”何て言う、
偶像礼拝主義の、教えもそうです。
神の意図が、読み取れず、本末転倒の事態に陥る。
人は、どこまでも、神の意図からズレて、物事
解釈して行く、可能性があるのです。
神の真理の、枠を外れ、その圏外から、考え始めたら
どこまでも、ズレて行きます。
そのまた2に続く