さて、聖書を読んで行くと、いや読む前にどれだけ既存の
思考回路、概念、教え言葉に洗脳され影響されているのか
はっと気がつく事が数々あります。
本当は聖書には、何て書いてあるのか?という事を
知ると分る事なのです。
真実を知る手がかりが、必要なのです。
本当の事を知るためです。
道に迷って、神の意図した真実からそれないためです。
騙されないためです。
まことの命に生きることを妨害されないためです。
別にちょっとくらい変えられても良いなんてあり得ない。
真実は、主の真理の中だけに存在するからです。
それ以外の場所は別物、違うものです。
ガラテヤ 3章22-24の箇所ですがどれほど
以前の私は誤解と勝手な自己流解釈のために
分らないまま誤解して読んでいたか
書き出してみたいと思います。
ガラテヤ書のテーマは何でしょうか?
トラー神の教えを知らない人達が、律法主義に陥っている
事に関しての注意なのです。
つまり神のトラー教えをする事で、義とされる、
救いを保持継続、獲得する、
神に認められると思いこんでいること。
そうそう 割礼=ユダヤ人になる儀式を通る事で
救われると思い込んでいた教えと同じです。
つまりこういう事です。
お供えを線香を、お仏壇にたむけておけば、
Ok的な考えと全く同様。
偶像に仕えるように自分の手の業これこれだけしておけば
神に認められるという思索を
パウロが何度も正しているのです。
22 しかし聖書は、逆にすべての人の罪の下に閉じ込めました。
それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、
信じる人々に与えられるためです。
これは何と言う意味でしょうか?
この箇所を、多大に殆どの人が誤解して
読んでいる内容です。
いやこういう誤解誤訳の数々が沢山有りすぎます。
全部分れば謎が解けて行くのに、神の真実が明らか
なっていくのに、こういう事から宗教神学を元に
解説された教えが、編み出され、生み出されて
行くのだと分ります。
そして混ぜ物した教えの弊害=人が真実の外へ
迷い出る。
人の教えに閉じ込められ主の与えてくださった
本当の命を生きる状態を発見出来なくなる。
だから混ぜ物の教えは危険なのです。
軽く見てはだめ、侮るなの世界です。
つまり救いを行い人間の手の業によって獲得しようとする人は
ズレの中に閉じ込められるという事です。
神のデザインではない、人の造り出した
教え=律法主義、仏壇に朝、ご飯と線香お供えした?
の世界です。
神との親しい関係なんてゼロ
自分に良くして欲しい下心から大嫌いなあのおっかない部長に
義理チョコ上げておきましょうかと同じです。
23 信仰が現れる以前には、私たちはトラーの監督の下に置かれ、
閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が
得られるためでした。
トラーの監督下に置かれとは どういう意味か。
律法は本当は、トラー、神の教え、インストラクションという
ヘブライ語です。
これをギリシャ語でノモスという
多様な意味に使われる言葉で訳された訳です。
だから人間の法律、宗教上の法律、又はこの世の
法則、罪の法則、律法主義、神の教えが
ひとくくりに、ノモスと言うギリシャ語にされそれを
また日本語や他の外国語に訳す時、律法と言うひとつの
言葉にひとくくりにされてしまい、誤訳そして
それにより私達の中にこの言葉に対する誤解が生まれたのです。
そして神の言葉=厳しい戒律、律法という意識を
刷り込まれてしまったわけです!
これすごいな~、そうか~と納得した箇所ですが
つまり私達トラーの教えの下に監督下に置かれるということが
どういうことなのか分ってないのです。
ちょっと遠回りに説明する事になりますが最近インドの
ある村で、別の村の男性と交際している女性に
罰金400ドルを課した。
でも貧しい家族はこれ払えなかったので、その変わりに
どんな事件が起こったか皆さんご存知ですか?
この女性を村長を含めて20人の男性が村で強姦の刑!!!
なんてこと非人道的、犯罪じゃないですか。。
つまり、トラーを生きるという事は、人間の最大の安全な
場所が作られるという事なのです。
そういう教えが通る、コミュニテイは安全そのものだと
言う事です。
だから神を知らなくても、神の教えの下に私達が
置かれるようされたという意味です。
そして、もう一つの例。
例えば、ある事件の目撃者になるとしますね。
あの目撃者の映画! ハリソンフォードの作品
あれドキドキしましたわ。
さて、目撃者になってしまうと身に危険が及ぶのは分りますね。
目撃してしまった事件の犯人に、もしかして付け狙われ
殺されるかもしれないからです。
そこで!警察は安全のために、目撃者の身柄を拘束
するわけですよ。
縛り付けるためではなく、安全確保のためです。
つまりトラーの監督下に置かれたとはそういう事なのです。
それはまことの神を今知らなくても、やがて本当の意味、救いを受けるに
至るまでの過程なのです。
その時まで、安全な場所で守られるという事です。
だから腹に書かれたトラーと、聖書が言う人々が良心と
呼んでいるそのものは、神を知らず知らず生きている人も
大勢世の中に居ます。善良な温かい人達。
それです。知らないまま、神にデザインされ、
造られた人間の姿を、生きているのです。
部分的にでも、神のトラーを生きて居る。
さて それを次のパッセージが解説しています。
24 こうして、トラーは私たちをキリストへ導くための私たちの
養育係となりました。私たちが信仰によって
義と認められるためなのです。
聖書をちゃんと解説、その中に書いてある背景や言葉や当時の
文化の中の様子、古代人の物の考え方、地理政治情勢歴史など
きちんと学んで知っていないと分らない事柄が沢山あることの
良い例です。
ここに出ている”教育係”とはどういう意味でしょう?
ギリシャ語で ペデゴーゴーという言葉です。
これは、裕福な家庭では、昔は学校がありませんから教師の元に
子供を連れて行って学ばせたのです。
その時に、その場所に連れて行く人が家庭には居たのです。
まあ召使いでしょうか。教師の元に連れて行く人。
ペデゴーゴーです。
そして無事に教師の元に、子供を連れて行けば
その連れて行くと言う面での役目は終わり。
そのベデゴーゴーはその後、家で洗濯したり、
他の用事をしに帰る。別の用事があるわけです。
子供(人)を教師(トラー 神の元へ)導きその場所まで
連れて行くその任務、役目、仕事は終わるのです。
でもです。トラーの中身が終わった言う意味では
ありません 100%そういう意味ではないのです。
トラーへ導くと言う、一つの側面の役目 養育係の
その任務はそれで終わったのです。
もう 真理に到達したからです。
それは、神と出会ったという意味です。
その後は、さあ新しくなった人は、トラーの中身を100%
生きれることになる、生きるのが私達の本当の姿だからです。
25 しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
そしてこの 養育係の下には居ません。
これまさにペデゴーゴーの事です。
ペデゴーゴーの 子供(人)を教師(神の元)へ連れて行く
役目、その役目は果たした訳です。そういう意味なのです。
まことの神に出会ったから、出会うまでの目的を
達成したと言う事です。
26 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
その後どうなったかと言うと、神の姿で生きる事
それが、トラーの中に書かれているので、本当の意味で
そのトラーを生きる場所にたどり着いた!
つまり神の中に修復されて神の子=新しい元の姿に信仰により
修復された。さあ! その子供たちはアバ父の家の子と
なった。
イスラエルの神の子らにされた人々は、
トラーを生きるのが、貴方達の本当の姿ですよ!と
主が言われているのです。
トラーの中身が終わった言う意味ではありません。
イエスさまが地上で、トラーを生きたからもう終り!
私達はそれをしなくても良いのですという、説教を
ネットで、又はありとあらゆる所で読む時に、
神の言われている事の意味が分らない=盲目=盲人は
盲人を導き続ける良い例ではないかと思いました。
神の本当の言葉を、混ぜ物したり変えては、結局
神を知るに至っても、その神との本当の関係に
入ることを阻まれる。だから絶対に、神の言葉に
人間の教えの混ぜ物をしてはならない。
それが神の言われたエデンの園をガ-ドすると
言う事でもあるのです。
悪者が家の中に侵入しないようにガ-ドする事です。
それは神がしてくれるのではなく、自分が見分けて
識別して、思考する以外ない。私達の任務なのです。
安全な囲いを飛び越えない。安全地帯に留まるのは
私達一人一人の責任だからです。
神が私たちの頭脳をリモコンで自動コントロール
するように造られていないことからも分りますね。
それが神が人に与えた仕事=アボダー=礼拝
神の言葉 教えをガードする 創世記2:15
混ぜ物しては駄目!と神が言われるのです。
神の言われた事をガ-ドし、エデンの園で耕す。
単純だけど人間の本当の姿、生きる事をそこに
ちゃんと書いてあるのです。
それは律法主義でも、人の手の業努力でもない
神の私達へ与えた仕事、任務、警告なのです。
神が守ってくれるから、我が家は寝る時も
ドアや窓に鍵をかけないという人は
いるでしょうか?そう言う事です。
すべては、私達の安全、本当の命を固く守る為
なのです。
トラーが終わった!と世界中が言う驚き。
人が作り出した教えを信じているからです。
これが霊=神=イエスに導かれて言う言葉なのでしょうか?
人は霊に導かれたと思い込み実はそれは、本当の神の
言葉が分らない限り、誤解したまま勝手に導かれたと
思い込みの連続で違う場所に行くのではないでしょうか?
神の与えて下さった命を100%楽しんで、
神を楽しんで、究極の親しさの関係を知る場所に
来る事が出来ない。
生きて行けないという多くの事実が何よりも
良い証拠なのではないでしょうか?
混ぜ物された教えのせいです。
そして神の救いは100%神の権威、業です。
誰の手柄、業でもありません。
全世界を創造物、どんな事柄を通しても、神は人に
トラー=神ご自身に戻るよう導いている。
ケレビムがエデンの園の入り口で
”これに戻りなさい!エデンの園=神の中に戻りなさい!”
と警告シグナルを出し続けているのです。
でもその命の中身を生きる事を、
人は阻まれているではないのでしょうか?
混ぜ物された教えのおかげで。
神を知った!でも、その後 どうして そうしょぼしょぼ
だらんとうなだれて、苦しみ渇いて
生きているのか 本当に考えれば原因が分かります!
それは 神のせいではない。
神の言葉ではない 人間が神の警告を無視して 神の言葉に
混ぜ物して作り出した教えのせいです。
人が邪魔しているのです。
トラーは終わった?100%それはないです。
神が神の言葉=神ご自身=トラーは永遠不変と
言われているのです。
誰がこの世の権威になっているのでしょう?
これこそ、混ぜ物した教えの危険性、反キリストに加担する
ことではないのでしょうか?
トラーへ導くという一つの側面の役目、養育係の
その任務はそれで終わったのです。
もう神の居る場所=エデンの園=神ご自身の中
修復されに到達した事を知るに至ったからです。
いや多くの人は、私達の中に神が居り、
私達も神の中に居ると言いながら本当の意味を現実に
分らない、発見出来ないままいるのではないでしょうか?
この事実、神の中に修復されていると言うそれが
何であるのか、じっくり考え続けるのです。
考えない場合は、脳回路が造られないから結局
既存の教えの理由付けの中に留まり
また閉じ込められるだけです。
養育係の役目=神と出会うという意味です。
その後は、さあ新しくなった人は、トラーの中身を100%
生きれることになる、生きるのが私達の本当の姿だからです。
そして、救いを得るために、義とされるために、認められる
ために、トラーを生きる事は、的外れであり、
それを、律法主義と呼ぶのです。
でもその時に、人の教えが混ぜられ、偽物の教えに
覆い隠される 自分の本当の姿 神の姿が
そう!あの割礼の包皮で、自分の本当の生き生き生きる姿が
覆われて見えなくされてしまうのです。
続く