聖書は、一つの書物で表紙が付いていますね。
この表紙には 聖書という 言葉が書かれています。
私たちは、信じた時から
この聖書は一つの書物だと教えられています。
だから そのように信じているわけです。一応です。
しかし、実際はそれを、実践していないのです。
これは、聖書に関して、刷り込みにより無意識にしていること。
私たちは、しばしば、聖書を分割しています。
そして、旧約と新約聖書というように言います。
しかも、聖書の中に 旧約、新約と言う、
ページまで挿入しています。
そして、私たちは、少々混乱し始めるのです。
一つの聖書しかし、今、二つの書物が存在すると信じ始めている。
しかも、聖書大学や、神学校レベルでは、旧約聖書専攻とか
新約聖書専攻などと、言うものまであります。
これが問題になっているのです。
しかも,もっとひどいことになっています。
私たちの中で、聖書が
一つ以上の書物であると
考え始めただけではなく、
私たちの思索の中で、 一つの書物が、他の書物に
敵対しているかのように思い始めている。
新約聖書があり、しかし旧約聖書がある。
そしてお互いに 対立したものとして存在
しているかのようです。
ああ~ 旧約聖書はこういっているが、
新約ではこう言っている。
だから今私たちは新約を旧約に対抗させているのだと。
そして矛盾の可能性を、示しているのです。
聖書が半分に、分割されていますね。
でも実際の正確な画像はこのようなのですよ。
旧約聖書がこの右の部分です。
どんなに、多くの量があるか分かりますか?
そして 左が新約聖書です。
四対一くらいです。一が、新約と呼ばれる部分。
こんなに、少ない量なのです。
私たちをこのほんの一部のコーナにある新約聖書に対して、
聖書の四分の三を占める旧約聖書を、対抗させているのです。
ほとんどの信者の方は信られないことだと、思うでしょう。
しかし残念なことに、私たちはしばしばそのように
お互いに話し、伝えているのです。
この神の言葉に対する、私たちの態度が
しばしばこのように、なっているのです。
そのようにして、最初のモーセを
2番目のモーセに対抗させているのです。
イエスさまは、第二のモーセとしばしば 言い表されます。
なぜなら、イエスさまは信じること、教えられた事 全てを
第一のモーセの上に置かれて されているのです。
100% です。
イエスさまはこれが 一つの書物だということを
理解されています。
イエスさまの、ミミニストリー、教え、全てはこの
一つの書に基づいてされていたのです。
一つの事に沿って、一つの書物によってです。
第一のモーセは 第二のモーセに
相反するものでは、ないのです。
また逆もしかりです。
問題が見えますね。
私たちがどのように教えられ、どのように 信じ、
そして今どのように考えて、どのように聖書に関して
しばしば話すかという事です。
私たちは 聖書は一つの書物として
存在していることに、
気がつかなければならないのです。
そのように 話始めることで、 そしてそれを他の人に
伝える事
一つの書物だということそれが必要なのです。
この書物 聖書は創世記に始まり黙示録に終る
書物なのです。
この一つの書物(聖書)をはっきりとした、そしてもっと
正確な理解を、発達させていくことが出来るので
しょうか?
いかにして、私たちの思索の中に、また 会話の中に、
また 生きる上でこれを
発達させて行く事ができるのでしょうか?
それが、聖書,トラーの再発見なのです。