なぜ私達は モーセの五書(旧約聖書)を
律法と、教え続けられて、来たのだろうか?
一度も、モーセの五書、旧約聖書を、
トラー(主の教え インストラクション、ドクトリン)
だと言う言葉で、聞いたことはない。
教えられた事もない、そういう事さえ、話す人も,
殆どいない。
あなたが、優しい人なのに、
とても、厳しく、怒りっぽい人よと、嘘の人柄を、
人に悪い先入観を、与えるような事、言われたら
どうかな?
心外ですよね。
主だって、同じでしょう。
自分が言ってないこと、言った言ったと、
1世紀から今までに渡って言われ続けたら。
しかも、全国ならず、全世界的に言われ続けたら
これどうよ?て、私なら思います。
聖書は、元々ヘブライ語、そして、アラム語で書かれていた。
いえすさまがお生まれになる、250年前に、70人訳
Septuagiintと言う、ギリシャ語で、訳された聖書が出て来た。
その時 トラー(主の教え、インストラクション)という言葉を
訳すのに都合の良い、ギリシャ語
ノモス
という言葉が使われた。
その当時の人達にとって、トラーという言葉を訳するのに
都合のよい言葉だったわけだ。
本当は、トーラを訳するのに、使われるべき、
言葉じゃなかったわけです。
その時は 年代の新しい契約書、新約はなかった事に注目!
これ以降、このノモスという、言葉が
浮遊してしまう事になる。
果ては、意味の違う言葉の一人歩きが始まり、
その,結果私たちが、屯でもない誤解を
刷り込まれることになったと言う訳だ。
この ノモスという言葉、新約聖書が書かれる時に
聖書(トラー)を指していない言葉に対してまで、
ノモスが 使われてしまっている。そうすると
大混戦。机と椅子とタンスと晩ご飯が全部同じ言葉で
くくられたら何がなんだか分らないのと同じ。
あたかも、聖書を指して、
言っている誤解の刷り込み
侵入はここから。
問題が、出て来た!
NOMOS ノモス
という言葉は、多彩な意味を、含む、幅広い用法のある言葉で
色々なことに使われる言葉だと言う事に
注目を!
ヘブライ語のトラーは、神の教え インストラクション
を指してしか、使われていない言葉である。
トラーという元のヘブライ語には、律法とか
戒律とか、そういう意味は全くない。
靴下と鞄が違うのと同じ位違う。
かみさまは、私達を、失敗しないように
厳重に見張って、戒律 律法で、縛り付けるような
お方ではない。
そして、失敗したら、罰を与えるような そんなお方ではない。
私達がズレて行き、傷着かない様に、訓練は、与えるけれど。
罰や、Punishmentではない。
逆に、信じる私達が、これも、やってない
あれも、出来ないと、今日も失敗しちゃった、
かみさま どれくらい 私を怒ってるのかな?
がっかりさせちゃって、駄目クリ~
そんな事、思いながら
びくびく主の前に居るとしたら
本当に悲しい。内側の外側に飛び出している。
間違った アバ像かみさま像を刷り込まれている。
神のインストラクション、教えは
アバのカワイイ、愛してやまない
我が子達を、守るための 教え。
私達が、個人 夫婦 共同体として、
造られた、あるべき状態に、生きれるための
インストラクションだ。
だから、普通の生活でどうするか
全部書いてある。細部に渡って。
全ては生きるため。
トイレで用を足した後の事に関してだって、書いてある。
服に関しても、食べ物や、どうビジネスするか、
どう結婚生活を送るか
どう戦争するかまで。細かく。
友人と仲違いしたら、誤解されたら、誤って人の物を
破損したら、どの様に謝罪、弁償、修復するか
全部書いてある。
私達の,あるべき状態、意図されて造られた状態で、生きる!
を守るためでしょう。
世界の平和をま~もるため。
それに反して、ノモスは、幅広い用途があり、
聖書を指して、使われるべき言葉ではないんだ。
トラー=律法ではない。
ノモスという ギリシャ語の 意味記してみると、人々が
モーセの5書に関して言っていると思ってる内容は、実は違い、
ノモス=原理、習慣 原則、法律
別の事に関して話しているのが、新約聖書の中で、
細かく調べると 明らかだ。
1 カスタム 習慣、原理
ローマ7:21
こういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
2 市民立法、国会で使われるような、憲法
ローマ 7:1
それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか―私は律法を知っている人々に言っているのです。―
3 支配する力、原則を書き換える法,力のことなど
ローマ 8:2
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
これも 原理であり、トラー(神の教え モーセの5書)ではない。
4 ユダヤ教の宗教上の決り、法律など
これは、聖書や、神の言葉を指して話しているのではない。
例 エペソ 2:15
15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、
さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。
このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を
造り上げて、平和を実現するためであり、
人々は、パウロが、モーセの5書を指して話していると
勘違いしている場所であるが、
パウロは、ここで、当時のユダヤ教、ユダヤ教も宗教、
その宗教 イズム、グループの人間が造った、法律、
さまざまな、しきたり、人間の教えについて話している。
モーセの五書、聖書の事を、話しているのではない。
5 律法主義 Legalism
ローマ 6:14
私達は、律法の下にはなく、恵みの下にある。
これこれ、よく勘違いされている箇所!!!
これは、
私達は 律法主義の下にはなく、恵みの下にあると訳されるなければならないのである。
これを、取って、人々は、
私達はモーセの律法の下にはなく、恵みの下にある。
と勘違いしている所だ。
これをもし、
モーセの律法の下
ではなく、神の教えと、入れたらどうなるか?
私達は、主の教え インストラクションの下にはなく、恵みの下にある。
と訳したら
変でしょう?全然つじつまが 合わず、聖書が矛盾してしまう。
完全誤訳
律法主義とは、神様にお恵み頂くために、ある原則に従う
そういう事だ。
沢山祈って、断食して、自分の願いが
聞き届けられるようにしたり、
主に、許しを請い、認められるように、証、奉仕
献金したり。
そういう動機で、色々主に対してする事を、
律法主義、 偶像礼拝というのである。
動機が、不純だということ。
そういうかかわり合い方、偶像に関わるように
私(主)に関わらないで!
と主が、言われている。
続く