7年前まで、聖書のヘブライ語の中の、色々な文化、思索、
しきたりや
語法などなど、そんな事が、ある事も、存在する事も、
考えずに、そのまま 読み流していた。
そんな所へ、以前に話した、待ちに待った、聖書との出会い、
ヘブライ語からの学びに出会った。
今では、一応、通訳翻訳?する人として、チーム?に
入れてもらっているのですが
殆どは、色々と学んでいるだけです。
聖書の中には、ラビ的用法とか、預言者的会話とか、
契約用語 法廷用語などなど
数々の言葉の決りがあることを,知った。
日本語の中に、川柳やら、俳句があるように、そういう、
詩の形体も ヘブライ語の中にあるんですね。知らなかった。
聖書の中に、それが、ちりばめられている。
その一つが、契約用語である。
『主は ヤコブを愛し、エサウを憎んだ』とある、
私が学生時代通っていた、アメリカの有名なメガチャーチ
世界的に有名な牧師が この解説をしていて(
この教会は 聖書を全部通読 講義するので有名だ)
その先生が『分らない』と言っていた。え?
そんな 先生でも 分らないんだ。。。
と、そのまま謎が解けなかった。
しかし、私の出会った先生が、解説してくださった。
『これはね 契約用語なんだよ。
だから 契約という枠の外では 意味がない言葉なんだよ。
主が 誰かを ひいきしたり、憎んだりする?
そんな 訳ないよ。これは
この 言葉の用法が分らないから、出て来る問題だよ。』
こういう事だ。『主は ヤコブと契約を結び エサウとは 結ばなかった。』単にそういう事。
長子の権利を 売ったんだものね。長子としての、契約を結んだという事だ。
そういう意味が分らなかったら、『ひどい!かみさまって
一人を憎んで一人を愛するの?えこひいきはないって
言ってたのに。』
そういう誤解も生じる事、なきにしも、あらずだね。
誤解が誤解を生みだす。