言葉  ことだま | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

少し、別な話を、書いてみたい。
言葉って、意志伝達の上で、とても重要な、
位置を占めている。
言葉は、主 御自身そのものだから。
言霊(ことだま)だね。


外国語の言葉を、日本語に訳す時に、左から、右にそっくり 
そのまま訳せない言葉がたくさんある。

例えば、日本語の ”頑張れ~”を 英語で 訳せない!
頑張ると言う表現はない。それに、ぴったり 合う言葉は
無い。
だから,別の表現 それに近い表現をする。

7年前に、ヘブライ語の聖書から,ひもといてもらえる、
授業を受けた時まで、
聖書の中には、適切ではない訳が、または、完全に、
意味の違う訳が、存在することなど
思いもよらなかった。

そんな事が、あるなんて考えてもみたこともないし、
そんなことあるの?て感じだった。
しかし、それは、ありえる。どんなに、忠実に、
訳したとしても、文化背景や、時代、その他の色々なことを、
知らなければ、正確には、訳せない。
しかし、聖書に、間違いがあるのではない。
”誤りのない、神の言葉”というのは、原典においてのみ、
主が語られているからだ。

言葉の意味するものは、大きい。それに,よって、
印象が全然違うからだ。

その一つ、私達が、”律法”と,訳してそのまま 
そうだと思っていた言葉は
実は! 違うことの、驚き。
神の言葉を指して”律法”なんて言葉は、オリジナル聖書に
は出て来ない。

ではなんだろう。
Nomosというギリシャ語で訳されている、その裏にある元の、
ヘブライ語は=トラー=Torahである。

トラー なんだろうか?
単純に、かみの 教え 指導である。
律法なんていう言葉では、聖書の中には無いのです。
律法と書いてある所を、全部、主の教えと、
変えただけで大分印象がちがう。
詩編を、律法なんて、思わないものね。
詩篇は律法と言えば変だと思う。
恵みと愛と慰めと許しに満ちた書と思う。
じゃ同じ神の言葉をなぜ、他の書を律法と呼ぶのか?

私の、友達に、ある世界的に、
有名な聖書翻訳団体に派遣された人がいた。
便利な、カリフォルニアから、アフリカに、行った。
スーパーもお店もないから、ケンタッキーフライドチキンは
家の裏で作るんだよ~と、冗談言ってたけど、井戸水で、
水を汲み、自給自足的生活をしていた。

幼い子2人も、抱えて、雨が降れば、車が泥に立ち往生して、
家に帰れない事もあるとか。でも、とても明るく生活して、
楽しそうな写真を、送ってくれた。
彼らの、主の言葉を伝えたいという、使命、熱意,愛に本当に,
心が打たれた。
その、有名な、聖書翻訳団体に、私の先生方が講師として、
招かれた事がある。

その理由は。。。彼らの言う所によると”聖書に
何がかいてあるか、つまるところよくは分らないから
教えてほしい!”と言う理由だった。。

言語以前に、聖書に何が書いてあるか、そのものが分らない!? 
それが 問題であると言う事なのだ。
しかし、本当に正直で、謙虚な方々に、心が踊る。
きっと、主はご自分の 声を、まっすぐに聞ける道を、
備えてくださってるのだと分るから。