"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の言葉に忠実に生きる事を、こだわるのはあたかも悪いことと意識させ、

神の教え=古い教え=律法=トラーを生きるのは恵を捨てている!

神の教えに固執するのは悪いことだ、今はなんでも自由だ!などと、聖書とは真逆な思想を語っています。

考えたら、おかしなことを言っている、危ない思想を語っている気がつけます。

 

イエシュアを愛する人は、神の仰せ=トラーを生きる人!と言って

いるのに、全く通じない。神を愛する人は、神の仰せに反することをし、自分で考える生き方を自由に生きる?

それは、神の教えではありません!

イエシュアがされたこと、言われた事を検証すれば、それらがトンデモない異端思想である事は、イエシュアの言葉=父の教え=トラー

からクリアーに証明できます。

 

何生きても、何やって良いなら、神は最初から人にそう伝えます。

そうではないから、事細かに人に生きる上での詳細を説明しているのです。なぜなら、私達はイエシュアの性質通りに高貴に、精密に造られているから、偽物のを取り入れて生きたら本来の性質が破壊されて、汚され、壊されるからです。

神の教えをちょっと見聞きすると、それが何?と思うでしょう。

道徳的な事は、神を知らない人でも分かります。

 

盗むな、嘘をつくな、殺すな、姦淫するな、偽証するな、

でもそれ以外の神の教えは、神の教えの意味を理解しない人には、

どうでも良い!人の自由と思えるのです。

シャバットを聖別し、そのように取り扱うと言われたことを、

クリスチャン、カトリックは真っ向から反して、カトリックは

偶像も作っている。偶像、目に見える形のものだけでなく、

同様に、神の教えとは違う思想、神の教えとは違う教理です。

キリスト教も同じでしょう。神の教えが廃れた!という偶像=人間の教え、思想=ローマ帝国皇帝の勅令、西洋教父たちの命じたことを

同じように信奉しているではないですか。

 

神の教えは、エデンの最初から教えられています。

神が創造された人は、何を食べて、何を食べるように造られていない!神が教えているのに、人間がそれを退ける、変えている!

それ、完全に今無視して、今はなんでも食べて良い?と言うでしょう。

しかも、コロサイ2やローマ14を間違った解説をし、今は食規定は廃れた、シャバットはいつでも良いと言っています。

クリスチャンが日曜礼拝に安息日が変更になったとされる根拠としている箇所は、使徒20、コロサイ2、ローマ14、1コリント16

などですが、その箇所には日曜礼拝のことなど微塵にも記されていません!大体、聖書には、日曜礼拝、クリスマス祭り、イースター祭りなど書かれてもいませんし、誰も祝ってもいません!

 

勘違いして聖書を読んでいるのは、パウロが書いている意味を正しく

理解しないまま、人間の思想=宗教=デイスペンセーション神学=

神の教えが時代ごとに変化するという、偽情報でパウロの手紙を読み

解いているという間違いをしているからです。

大前提があります。パウロ自身が証明したように、パウロはモーセの五書に反する教えなど1つもしていません!モーセの五書に反する生き方も1つもしていません!と証明したこと、その大前提から、

パウロは神の教えを塗り替えたり、変形させていないという事実からだけ、全体を正しく読んでください。

ここに書かれているのは、この章の最後でも分かる通り、人間の編み出した虚しい思想、哲学に注意せよ!ということであり、古い神の教えを捨てよ!警戒せよなどという、大罪ではありません。

 

コロサイ2:13 あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼が

ないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。

2:14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。

 

ESV(英語標準訳聖書)の最初の語句「by canceling the record of debt(負債証書を無効にし)」という訳は、ギリシア語のフレーズ ἐξαλείψας τὸ καθ’ ἡμῶν χειρόγραφον(exaleipsas to kath’ hēmon cheirographon)に由来しています。

まず、ESVにおける英語の語「by」は、本文に付け加えられたものであり、13節の終わりの「神は私たちのすべての罪を赦した」と、

14節の始まりの「負債証書を消し去った」とを、因果関係にあるかのように結びつける役割を果たしています。

しかし、この因果関係はギリシア語本文には存在しません。

そのため、多くの翻訳(上で挙げた4つの訳を含む)は「by」を入れず、代わりに NASB の “having canceled(取り消して)” や 

KJV (欽定版)の “blotting out(消し去り)” といった表現を用いています。

13節と14節から私たちが結論できるのは、神が私たちのすべての罪を赦したこと、キリストの十字架の働きを通して「負債証書」を取り消したこと、の二つです。

しかし、これらの節から「1が2の結果として生じた」と結論することはできません。なぜなら、そのような因果関係を示す要素はギリシア語本文には存在しないからです。

この点の重要性については、後の記述で明らかになります。

 
次に、本文に実際に見られるいくつかのギリシア語について見ていきましょう。第一に挙げられる語は exaleipsas(ἐξαλείψας) で、文字どおりには「拭き取ることによって消し去る」という意味を持ちコロサイ2:14の場合には「跡形もなく取り除く」という意味合いになります(BDAG, 344)。

では、何が拭い去られ、消し去られたのでしょうか?
ここで用いられているギリシア語は cheirographon(χειρόγραφον) で、この言葉は聖書中ではこの箇所

(コロサイ2:14)にのみ登場します。

この語は複雑で、この文脈における意味については多くの議論があります。

直訳すると「手書きの文書」(BDAG, 1083)となり、欽定版 がこれを “handwriting(手書きのもの)” と訳しているのはそのためです。

では、いくつかの翻訳がどのようにして「負債証書」或いは「債務証書」といった訳語に至ったのでしょうか?


オブライエン(O'Brien)は、cheirographon が「義務を証明するために自らの手で書かれた『負債を示す文言』」を意味すると

述べており、この理解はユダヤおよびギリシア・ローマの歴史的資料において裏付けられるとしています。(同 p.124)

つまり、これは法的な用語であり、債務者が債権者に対して、自分が負債を負っていることを自らの筆跡で記した、いわゆる 借用証明書(IOU) に相当します。(同 p.125)。

実際、cheirographon がこのような意味で用いられている例は、

七十人訳聖書に含まれる外典『トビト書』にも見られます。

(5:1–3; 9:1–5参照)

ここでは、手書きの債務証書の受け渡しと返却が描かれています。

コロサイ2章14節において、cheirographon(手書き文書) は “cheirographon tois dogmasin(規定に関する手書き文書)” 

という語句の一部として用いられています。

dogma(複数与格 dogmasin)は「規則・規定・法令・命令」を

意味します(BDAG, 254)。

そのため、この箇所を単純に訳すと、欽定版 の「handwriting of requirements(要求事項の手書き文書)」や 「handwriting of ordinances(規定の手書き文書)」のようになります。

 

14節においてパウロは、私たちに敵対していた(hupenantios)

その「要求事項の手書き文書」が取り除かれ、十字架に釘付けにされた、と述べています。

では、この「cheirographon tois dogmasin」とは何を指すのでしょうか?

一部の人々は、ここで言われている「規定の手書き文書」は、

モーセの律法(トーラー)を指すのだと主張します。
もしそれが真実であるなら、パウロは「トラー=神の教えに従わなくてもよい」と教えたことになり、同時にトーラーは十字架に釘付けにされ、「死んだ」のであり、もはや神の言葉は拘束力を失った、ということになってしまいます。罪の定義も、聖別の定義も、人の生き方の全て=神の教えも全て消滅したことになります。

しかし、この解釈には即座に重大な問題が生じます。

その解釈は、トラーそのものが私たちに敵対していると示唆します。

これこそが、反トラー思想なのです。
しかし、これは聖書の他の明確な教えと調和しません。

例えば、詩篇119篇を少し読むだけでも、トラーは喜び 助言 命、光、真理、自由をもたらすと述べられています。

そして、神ご自身が、神の言葉は永遠に廃らない、変わらない!

と宣言し教えているからです。

私たちに敵対しているのはトラー=神の教えではなく、私たち自身の肉、罪深い欲望であり、それが神のトラーを破る原因となっています(ローマ7:11–14)。

又、私たちに敵対するものは人間が作った伝統の教え、しきたり、

慣わし、実践であり、それが神の言葉、教えの真理から人を離れさせることがあります。(コロサイ2:8;マルコ7章)。

私たちが神のトラーにもたらされる自由と祝福を実際に体験するためには、私たちに敵対するもの(罪と人間の規定)が取り除かれる必要があります。

更に、ほとんどの福音派学者によれば、ギリシア語本文は cheirographon が神のトラーを指すことを示していません。

実際、コロサイ書全体の中で、律法(nomos〜ギリシャ語ノモス、

ヘブライ語=トラー)という語は一度も登場しません。

思い出してください。cheirographon は歴史的に、自らが負債を

負っていることを認めて自分の手で書き記した法的文書を指す語として用いられてきました。

このため、多くの学者は単に「手書き文書」と訳すのではなく、

「負債証書」「債務の記録」と訳しているのです。

(上述した ESV、NASB、NET などがその例です)。

したがって、一般的な学術的解釈は、cheirographon はトラー=

モーセの五書そのものではなく、私たちの罪、すなわち、トラー破りの記録を指すというものなのです。

そして、それの違反、罪が十字架に釘付けにされたのだ、と考えるのが妥当です。

オブライエンは次のように述べています。「わたしたちの選好としては、χειρόγραφο(cheirographon) を、神の前におけるわたしたち負債の署名入り承認書として理解することである。

IOU(借用証文)のように、それには罰則条項が含まれていた」

(ヨブ記 5:3、フィレモン 19節参照)。

ユダヤ人は神の教え=トラーに従うと契約したが、この契約を破る

ことの刑罰は死に匹敵する罪であったのです。

(申命記 27:14-26、30:15-20)。

パウロは異邦人についても、彼らの良心を通して理解しうる範囲於いて、道徳律に対し同様の義務を負っていたとみなしているのです。

(ローマ 2:14-15 参照)。

そして、その義務は両者のグループ、異邦人、イスラエルによっても果たされなかったために、この「証書」は、尚もわたしたちに対して不利なものとして残っていたのです。(p.125)

 

要点をまとめると

解釈対象 何を意味するか どこが十字架にかけられたのか
トラーが釘付けにされたという解釈 トラーは無効化された → 本文も文脈もこれを支持しない
罪の記録が釘付けにされた(主流学術解釈) 債務証書=罪を犯した事実の記録 → これが十字架で完全に取り除かれた

 

従って、パウロが言っているのは、十字架に釘付けにされたのは神のトラー=教え=モーセの五書=婚姻契約ではなく、私たちの罪責の記録(債務証書)のことであるのです


クリスチャンの間で解説されているパウロの手紙の内容は、偏見と
人の編み出した思想、教理の先入観に満ちていて、その思想を通してパウロが書いた意味を完全に曲げた、間違った聖書解説なのです。
こういうでしょう。神の律法は十字架につけられて破棄された!!!
恵を捨てて、律法に戻る気か〜!信じたら、ユダヤ的なこと全てやめよ!
これ、偽情報、間違った、曲がった聖書の読み方による、嘘、間違った思想です。
偽情報を、このように教えられてしまうのです。
でも、聖書の箇所の事実を繋げれば、神の言葉が廃れたということは
神が死んだ!という意味であり、イエシュアご自身=聖霊を否定する
行為であり、神の言葉は完全、永遠に廃らない!神のトラーは人の
道、歩みを照らす指針、光であり、喜びをもたらすという数々の
解説とは相反する思想であることは、聖書を読めば分かるはずです。
 
聖書を読む前提が狂っている、最初からズレている!聖書を読む
前提が人間が、編み出した思想を土台としている!という事実に目覚めてください。
神の教えが廃れた、十字架で処分されたという神に敵対する思想を信じたら、それは、神の教えを生きる、イエシュアを生きることではない、人間が編み出した宗教、ローマユニバーサル教という宗教、
不純物の異教の神々の教え、人間の教えにまみれた教えを信じて
砂の上に建てる家を実践してしまうのです。