"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

前回の続きですが、聖書を自分の空想で読み込みしている内容は

山ほどあります。神の律法、本当は、ヘブライ語では、トラー「教え、インストラクション」という意味の言葉を、太古の人達は、生きてかろうじて義とされたと異邦人は考えて、そう教えていますが、そんなことありえないこと、聖書の最初から理解すれば、明らかなことです。永遠の中から、どの時代も、神の前に義とされることは、イエシュア子羊の血の贖いを通して以外にない!という事実を知らない人が考えた、思想、教義なのです。

 

なぜそう分かるのか?最初から、神が100%全てを用意し、

人の為、人が生きるためにこの物理的世界を造られたことから、

始まって、全てに渡り、神から人にアプローチしない限り、人から神へは行くことができないからです。人は自分の意思で生まれることができないことからも、明らかだからです。

人は自分の努力や手柄で、神に近づけないことは、最初から書いてあるからです。人間と神は違うからです。

 

神の中に、永遠の中に私達は選ばれていた。そして、6日の間で

全てが完了!人が生きるのに必要な全てが揃った、これは本当に全てです。

それがシャバット7、完結完全完了で表されているのです。

霊的、精神的、物理的、全部が入って全てです。

欠けがない全てが地上に現れ出た。そして7日目は全てが完了し整い、全創造物で最初の「シャバット」を祝ったのです。

 

神から人に近づいてくださる。そうでしょう?

人から神の方には、近づけないからです。

エデンの園を飛び出て、超えられない壁があるからです。

 

イエシュアが、だから、天から地上に来られて、人のところに来られて、神から近づいてくださる事、それを実際に地上でも証明されたのです。

でも、イエシュアが2000年前に、地上に肉体を取って来られる前から、イエシュアは人に現れ出ています。

神はいつでもどんな形でも人に現れ出ます。それは、神の自由だからです。そして、見えに見えない神が人と共にいること、

これはエデンの園を出てからも、世界の四隅に流れる川〜生ける水、荒野をついてきた岩、生ける水が出た岩、イエシュア、そして、荒野でのミシュカンの神の契約の箱、光と雲の柱でも、人に神の臨在を表して、教えているのです。

出エジプト、過越から7週目の、シナイ山でのシャヴオートの

出来事、光とサウンドショー、神が現れ出て語られ、天が降りて来た、使徒2章のシャヴオートよりも、もっとすごい出来事だったのです。

だから、トラーを知る人は、ショーファーの音は、神の声と理解できるのです。ショーファー、角笛の音を聞く、神の記念日に

ショーファーの音の意味を知っている、この知るとは、婚姻関係の最も親密な親しさの中での知る!という意味です。

それを聞くものは、幸いと書いてあるのです。

その意味は、神の声を聞く人、神の祭りを祝い、神の到来の意味を知る人は幸いと教えているのです。

祭りとは、神の祭り、レビ記23章にある祭りです。これは、

ヨムテルア、秋の祭りの日、再臨を表す、神の警報、アナウンスメントを喜び望み待つ、それを表しているものです。下矢印

 

詩篇 89:15 祭の日の喜びの声を知る民はさいわいです。

主よ、彼らはみ顔の光のなかを歩み、

 

この赤字の箇所は、神の叫びという意味の「テルア イエホヴァ」と書いてあるのです。そして、その人達は、神の光の中、

神と顔と顔を合わせて歩む〜生きると書かれているのです。

 

異邦人は、神の教えを捨てよ、無効、終了!などと、神が伝える事とは、真逆な人の考えついた教えを教えられてしまったのです。神=言葉=イエシュア=聖霊であると、聖書に書かれた事実を理解していないからです。神の言葉が無効?それならば、歴史の途中で、変更、無効、無用になるような言葉は、イスラエルの神の言葉=聖書などではありません!

人は神が提示した婚姻契約〜トラーに基づき、関係を結んでいる事実を忘れてはならないのです。

人と神とは、「関係」の中に関わりを持っている、神を知る〜関係の中にある、聖なる民とされた人が、神の性質からズレたら、

神と顔と顔を合わせる位置がズレ、最も親しい関係からずれてしまう!そのことに気がついていないから、神の教えを捨てよ!という人の教えに引っ張られてしまうのです。

 

人は自分から神に近づくことができないのです。エデンに生まれたのも、神による、神が創造されて、命を生み出したから、

そうなったのです。全ては、人由来ではない。

そして、イエシュアから人に近づいて下さった。神がずっとエデンの園を出た後も、共に着いてきた。それが様々な事柄を通して書かれているのです。

 

文字で記された神の言葉は、音声ではない、声なき声、神の声であり、神の奥深いところにある、考えを人に伝えているものなのです。それを、人が捨ててよと教えて、そうしているのです。

神の言葉は完全で永遠普遍と言いながら、実際にはそのように

取り扱っていない矛盾に全く気が付かないには、嘘の部分を、

人の思想で解説し、穴埋めしている、いや人の教えを土台にして聖書の方を曲げて読んでいるからです。

 

そうすると、どうなるか?神が何を考えて人に教えているのか、分からなくなってしまう、それが世界で起きている、今の現状なのです。

 

福音書以降に記された事を、異邦人聖書学者の思想や解釈で解説されていますが、サタンという言葉も、その1つです。1世紀当時、サタンという言葉を、「神に反対する、叛逆する、罪」という意味でも、頻繁に使われていたのです。

神に対して、どんな事でも、それは神の言葉に対してということも含めて、神に対する反対者、反撃、叛逆の罪、それらを全て

サタンというのです。サタンとは、悪霊でもありますが、悪霊が

空中に漂い人に何かするというよりは、誰かを通して、罪、ズレをするのが普通でしょう?

この世に蔓延る悪は、人の生き方を通して実行されているのです。空中に浮かぶ目に見えないものが犯罪を犯すのではないのです。人、誰かがやっている。悍ましい世の中。神の言葉に反することをする、悪魔の手先が世に憚っているのです。

 

一番嫌なことは、知らない間に、知らないから悪魔、神に反対する手先になる行動、言動をさせられることではないでしょうか?

イエシュアを愛する人は、イエシュアに反する事したいなんて、

純粋に思わないですよね?

私は、知らないからやっていた、知らないから食べていた、知らないから、神に反する事、神の言葉を否定する事を人に伝え言っていた、神の子、神により聖別された人の生き方を知らないから、神の前に悍ましい汚れを平気でできていた。

もしも知っていたら、その意味を理解していたら、決してやらない、やりたくない数々を、聖書に書かれていることが今も有効で、永遠に変わらないということを知って初めて気が付けることなのです。

神に敵対することを言い続けている、その間地面の下で、悪魔が

笑って転げ回っていることを考えると、本当腹立ちますが、悪魔の悪あがきには限りがあるのです。

彼らは最後に、イスラエルの神に対して勝利しますか?

いや彼らの最後は、敗北が決定しているのです!

イスラエルの神を否定する、神の言葉を否定する、ないがしろにする、神の子らをいためつける全てのものは消え去るからです。

だから、最後の悪あがき。特に神の子らを、神の性質とはズレた

生き方をさせるように、歴史の間中必死にやっているでこと、

特に神の子ら、イスラエルと、そして異邦人たちにも攻撃しかけているのを知っていますか?

この世の悪魔の手先と同じく、神のデザインに反する悍ましいことをたくさん人間にやらせている、それなのです。

神の子らであることを忘れさせる、その為には、神の言葉を

忘れさせることを、必死でさせているのです。特に教える人の口から聖書とは違う教えをさせている、だから聖書とは違う教えをされていることに気が付けない、サタンは巧妙なのです。

 

イエシュアも同じく、サタンという言葉を、ペテロに対して使っています。

マタイ16:21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、トラー学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。

16:23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、

サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。

あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

 

ペテロはサタンなのでしょうか?

いいえ、そうではないでしょう。サタンという言葉は、「神に敵対するもの」という意味なのです。

だから、イエシュアが処刑されることは、神のプランであるのに、神のプランに反することをペテロは言っていたから、イエシュアはそのように、ペテロに向かってズレている=罪=サタンと言ったのです。

これから、イエシュアが処刑され、永遠から存在する、神の子羊〜目に見えなかった、イエシュアが肉体を取って地上に来られて、そして、神の贖い、救いの業が真実が真実であることを、

地上の歴史の中で証明し、成し遂げるミッションが待っている、それを理解しないペテロはそんなことなど、あるわけございませんと、イエシュアに、言ったからです。

人間的には、そう言って、自分たちのメンターであり、救い主であるラビ イエシュア励ましたいと思ったのでしょう。

それが人間の肉の思い、肉の思想なのです。

人間の考えで全て見て、考えていることです。

イエシュアを信じると言いながら、神の実態そのものである、

神の言葉=イエシュア=聖霊=聖霊により書かれた神の言葉に

敵対する行為、それが何なのか、聖書からはっきり知れば、それらが、神に対するとんでもない行為であることに気がつけるはずです。

 

マタイ12:25 イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。

12:26 もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。12:27 もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。

だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。

12:28 しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。

12:29 まただれでも、まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を掠奪することができる。

12:30 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。

12:31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。

しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。