聖書には、150回以上「シャバット」に関して記されています。
シャバットの安息に生きること、イコール、エデンに造られて植えられた人の生き方そのものを、教えているものでもあるのです。
神が創造された通り、神が供給したものを通して、神が伝える通りを
人は治めて生きること。それが、礼拝の本当の意味だからです。
神が創造されたデザイン、性質とは異なる生き方、それは、破壊、
傷、隔たり、崩壊、ズレ、あらゆる不具合をもたらす生き方であることが聖書、神の教え全体を通して、イスラエルが通った誤りの歴史を通して教えられています。
誤り、間違えとは、神の言われた事とは違うこと、トラー=婚姻
契約に記された神が創造された人の本来の生き方、イエシュアの性質通りを生きることとは違うことをする、神の教えを捨てて、別物の
教えに混ざって生きること、これが全ての罪の根源であり、
人の本来の生き方ではないことを、教えているものです。
レビ記19:3 あなたがたは、おのおのその母とその父とをおそれなければならない。またわたしの安息日を守らなければならない。
わたしはあなたがたの神、主である。
19:30あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。
23:3六日の間は仕事をしなければならない。第七日は全き休みの
安息日であり、聖会である。どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて守るべき主の安息日である。
聖書は、神を知らない人が読んでも、理解できるものです。
どう言う意味かというと、神が言葉を発して、世界を造られた事を
読めば、その通りに読み取れます。
それが本当であると確信に至り、神の証言が真実だと信じるのは、
聖霊によらなければできません。
神が創造されたシャバットは、第7日目以外にはありません!という
事実が、聖書の最初に書いてあります。
そして、神が言われる通り「代々永遠に祝われるわたしの記念日」
がレビ記23章に記されています。
神の性質、神の言葉教え、記念日は昇天以降廃れた!変わった!と
これを、人がどううまく塗り替えた解説をしたとしても、それは永遠に真実にはなりません!神の前に、全く虚無、無意味な言い訳の解説をし続けて、人間の考えて編み出したもので、神を礼拝する、
これこそ、押し付け、神がNOと言われる事が、神の教えを捨てる人には、書いてあっても全く通じなくなっているのです。
神、創造主が存在している事を、聖書に書いてある通りに読めば、
その通りに読めます。
永遠の中に神が存在して、最初に神世界を創造された。
その事実を受け取り、個人に対しての意味として理解できる、咀嚼し、自分に対しての神の教え、生きる道であると理解する、
これは聖霊の助けがないと正しく受け取れません。
聖書に記された事が、書いていある意味通りを、本当であると
受け取れるのは、聖霊の助けがないと分からないからです。
書いてある通りに読めば、神の創造された安息日は、第7日目です。
そして、神が人に伝えている神が人を呼び出している特別の会見日
ミクラコデッシュは、レビ記23章に全ての暦が記されています。
これは、神が創造された神ご自身の記念日であり、人がそれを読んで
神が言われたことをそうだ、本当だ!と受け取るか、無視するか、
それは人の側の問題であり、人が神の言葉、教え、招きを無視して、捨てても、神が言われたことは、人の行動によって変わるものなどではない。神が言われた事は、永遠に変わらないのです。
神は愛です。神はあなたを愛しています。
これは、人が聞けば、読めば、その意味が分かります。
でも、これ2段階あります。愛て何?です。それぞれが考える愛の
定義があり、その人の中にある定義で愛と考えるのです。
神が伝える愛とは、神の契約書、トラーの中に記されたことが、
神が人に伝える愛の定義です。
そして、愛は哲学思想ではなく、実際に生きることの全て、神が伝えた通りを生きること、それが愛の定義です。
そして、基本的に、親に、人に大事にされたことがない、自分の成長過程、生い立ちの中に、大事にされというそのような経験がない人は、愛されていると言われても、それが何なのか良く分からないというのがあるでしょう。
怖い、厳しい、家族を大事にしない父親がいる人は、父なる神と聞いてゾットしたというのを聞いたことがあります。
逆に、子供を大事にする父親、頼れるたのもしい父親、優しい父親、自分の話をよく聞いてくれて、理解してサポートしてくれる父を持つ人は、父なる神と聞いて安堵する。
そういう理解の違いはありますが、字面だけ読んで、神は愛というのは、書いてある文字を読めば誰でも理解できます。
でも、それを実際に生活に適用、そして神に出会うという事実がない
人は、電源に繋がれていないから、見えない、適用ができないという
ことがあるのです。
聖書に書いてあること、それは書いてある意味通りに先ず正しく把握
理解することをしない限り、それは自分の中にある思想で、聖書を
違う意味で考えること、神の教えている事とは、違う、異なる実践することになってしまうのです。
特に、神の教えが廃れた!というローマ帝国由来の大嘘、偽情報を
信仰、思想の土台としてしまったら、それは、自分の都合で勝手に
神の言葉、教えを捨てて危険な生き方になります。
そして、聖書に書いてある意味を、正しく理解しない、イコール、
聖書を記した著者が意図しないことを、勝手に空想で別物を信じ込む、無意味なことをしていることなのです。
だから、神は熱心になって神の言葉、教えを求めよ!と教えているのです。
チャーリー カークさんが、色々な人と聖書に関して議論している
動画を見ました。
討論している相手はクリスチャンであり、その質問は色々ありましたが2つ短い動画を見ました。
1つは、バイセクシャルの女性であり、これまた逸脱した思想を教えられた結末、脳内ジーザス、空想のジーザス、聖書に記された本物の
メシア、イエシュアではない、自分の中にある概念のキリスト像なのです。
ジーザスは、全ての人を愛しています。
だから、バイセクシャルも受け入れていますと、その人は主張し
自分の生き方が、神の前に汚れている、受け取られない、罪であるという自覚ゼロでした。しかも、その罪から悔い改めようともしていない。それで良いと考えているのです。
その理由は、ジーザスは何をしていても、受け取ってくれる!という聖書とは真逆の思想を信じているからです。
LGBTを擁護する教皇や、牧師や、教師の教えを信じているからです。
レビ記18:22 あなたは女と寝るように男と寝てはならない。
これは憎むべきことである。
18:23 あなたは獣と交わり、これによって身を汚してはならない。
また女も獣の前に立って、これと交わってはならない。これは道にはずれたことである。
18:24 あなたがたはこれらのもろもろの事によって身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い払う国々の人は、これらのもろもろの事によって汚れ、
18:25 その地もまた汚れている。ゆえに、わたしはその悪のためにこれを罰し、その地もまたその住民を吐き出すのである。
18:26 ゆえに、あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守り、これらのもろもろの憎むべき事の一つでも行ってはならない。国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者もそうである。
20:13 女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。
20:23 あなたがたの前からわたしが追い払う国びとの風習に、あなたがたは歩んではならない。彼らは、このもろもろのことをしたから、わたしは彼らを憎むのである。
20:24 わたしはあなたがたに言った、「あなたがたは、彼らの地を
獲るであろう。わたしはこれをあなたがたに与えて、これを獲させるであろう。これは乳と蜜との流れる地である」。わたしはあなたがたを他の民から区別したあなたがたの神、主である。
20:25 あなたがたは清い獣と汚れた獣、汚れた鳥と清い鳥を区別しなければならない。わたしがあなたがたのために汚れたものとして区別した獣、または鳥またはすべて地を這うものによって、あなたがたの身を忌むべきものとしてはならない。
20:26 あなたがたはわたしに対して聖なる者でなければならない。
主なるわたしは聖なる者で、あなたがたをわたしのものにしようと、
他の民から区別したからである。
神はクリアーに、神の似姿に造られた人は、神が伝える聖別を汚す
生き方はできない!それは、あなたの性質に反しています!と
はっきり教えています。それをしたら、破壊されるからです。
イエシュア、使徒、パウロ達が語っている、解説している教えは
100%全てモーセの五書、トラーの引用であり、自分で思いついたことを語っているのではありません。
神の教えに反していないこと、ローマ14章のように、いつの日に
断食しようか、偶像に捧げた肉を食べたくないと考える信仰生活、
神の教えの理解が浅い人は、野菜しか食べないと決めているから、
そういう人に対して、神の教えの理解が浅いから、偶像の神など人間が作ったものであり、存在しないのだから、偶像に捧げた肉、それらがきよい動物でも汚れると信じているのだけど、そういう弱い人を
批判するなかれ、という意見はパウロはしています。
それは、神の教えに違反しない内容だからです。
もし、パウロが、きよくない動物を食べて良い!として、人にその
ようなことを教えている、又は、いつでも安息日、祭りだ!などと
神のモアデイム=アポイントメントの日を変えてしまうことを
教えたとするなら、それは神の前に死に匹敵する罪であるのです。
だから、パウロは神の教えに反した教えは、人にしてない、
するわけないのです。
パウロ自身が、100%モーセの五書に忠実に生きていて、そして人にもモーセの五書を破る教えなどしてません!と神殿で、巷に広がった偽の噂を払拭したのです。
パウロがモーセの五書、トラーに反することを教えている、
子供に割礼をすることを禁じている!などなど、噂されていた
それはすべて、全部嘘です!偽情報である!と、神殿に於けるナジル人の請願を通して、パウロ自身が証明しているのです。
記録にはっきり書いてあるでしょう。使徒21:21。
書いてあるのに、読み逃し、正しく読み取っていないのです。
パウロはカメレオンではありません。相手により、コロコロ証言を変える?それって大嘘つきであり、罪を神の前に犯す、偽証罪です。
クリスチャンの間で解説されている聖書解説は、意味不明、聖書ではない解説がたくさんあるのです。その原因は、土台が砂!神の教えは廃れた!という大嘘、ローマ帝国皇帝勅令を信仰の土台としてしまっているのに、その事実を完全に覆い隠されて知らないままだからです。
間違った聖書の読み込みが、横行していて、聖書を正しく解説されていないから、偽情報、聖書とは異なる解説が異邦人の間で浸透して
しまっているのです。
バイセクシャルの質問者は、子供に性的なことをしなければ良いのだ
などと、聖書に書いてもないことを解説していました。
クリスチャンと言っても、神の教えを捨てていれば、それが自分に
対しての神が語る教えであると、認めていないのです。
そして、神の言葉は廃れた、終わり、無用!と主張する場合、
どういうことが起きているのか?
1)自分の判断で、神の言葉を勝手に仕分けている。罪が何かも
分からないままになる。聖別の意味も分からないままになる。
2)神の教えを知らない。 教科書本編を捨てて、後書きだけを知っている。神の言葉の完全版は、モーセの五書であり、その箇所に記されていることは、永遠に変わらない。人の生き方の神から伝えられた
完全版、全てがそこに記されているのに、それを捨てる場合、
罪の定義も、聖別の定義意味も、そして人がどう生きるのか、
神にどう近づくのか、神が呼び出している聖別された聖会の日は
いつか、知らない、終わりと思いこみ、呼び出されている日を逃し
神が呼び出していない日を、神の聖会の日と信じ込んでいる。
3)神の教えを知らない、イコール、神が伝えている聖別された人
神の民とされた人の生き方の正しい全貌を知らない、だから生きていない。
ということが起きるのです。
パウロが引用した箇所は、レビ記です。
1コリント 6:9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
6:10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
汚れた生き方、神が伝える聖別を破る異教徒と同じ生き方をしながら、神の家に上がれない。土足で、汚れたものを持ち運ぶ人は
神の一番親しい場所、お茶の間、祈りの家、祭壇には近づけない!
とずっと教えているのに、書いてある意味が通じないままなのです。
神が伝えるズレ、罪を知らない場合、自分定義の罪、聖別だから
それは神の前には、全く無効であり、土足のままなのです。
外国人が、衣服を着たまま、石鹸、タオルを風呂桶に入れて洗う、
土足で家に上がる、そんなことは、日本人の家ではしないでしょう。
神の家には、神が伝える通りの生き方をする人が、招かれる!
と書いてある通りです。それを、読者が否定するか、受け入れるか
どうか、そんなことは、神には関係ないのです。
神が言われたことが事実であり、そんなの信じな〜いと言っても
神が言われた通り、それを聞かない人は、命を選ぶ生き方をしていないというだけのことなのです。
どうして、神が言われることを毛嫌いし、神の教えに対して、
律法だ、廃れた!古い悪い教え!敵対心を抱かされているのか?
日本人が、戦後日本、自分の国を悪く思う、自国を尊重する考えを
全部骨抜きにされたのと全く同じことを、ローマ帝国皇帝たちによりされてしまっているのに、気がついていないのです。
イザヤ56:1 主はこう言われる、「あなたがたは公平を守って正義を行え。わが救の来るのは近く、わが助けのあらわれるのが近いからだ。
56:2 安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて、悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである」。
56:3 主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、
「見よ、わたしは枯れ木だ」と。
56:4 主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、
56:5 わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。
56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――
56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。
56:8 イスラエルの追いやられた者を集められる主なる神はこう言われる、「わたしはさらに人を集めて、すでに集められた者に加えよう」と。