"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

昇天以降、異邦人クリスチャンが契約を受け取る代表になり

世界へ、福音を伝えたと考えているでしょう。

 

福音とは、子羊の血の購いで贖われ、救われ、神の元に戻り、

聖霊が内側に住む、この点は聖書に記された真実ですが、福音はエデンの園の最初から同じなのです。

タナックを知るユダヤ人、残りの民は、エデンの園から語られた

同じ福音、購い、救い=イエシュアを内側に受けて知り

神と共に歩んだ人たちのことが、聖書には記されています。

 

歴史の中で起きたこと、1世紀以降から今迄を知らなければ、

あたかも、今は異邦人が中心、そして、メシアが地上に来られる

以前にあった古い律法は破棄されたと、そんな教えだけを聞いて

そう信じているのですが、神の教えは、古い律法とクリスチャンが名付けているトラー=モーセの五書以外にないという事実を

先ず知らないと、神の教え、聖書に対する正しい理解は始まらないのです。

遺伝子組み換えのように、神の言葉を勝手に捨て去り、破棄し

処分し、無用として、別物の教え=宗教の教えに作り替えているのです。

そのような行為こそが、罪と教えられているのに、その神の言葉が伝える意味も理解していないのです。

神の言葉は、分解できるような性質ではなく、丸ごとで完全

シャローム、1つで不変なのです。

 

人間の体が神により造られた、目に見えない霊的な存在が肉体と

1つで存在している。その人が生きる全てを神が教えているのに

これは無用、あれは要らない、これは自由に捨てても良いなど

そんなことを考えている時点で、神の教えではない、人間が

編み出した偽の教え=宗教を信じて、神の言葉を理解していないと気がついた方が良いです。

 

神の教えを知るユダヤ人は、異邦人が理解していないけれど、

遥かに神の教えを理解しているのです。聖別を汚す行為は、

異邦人も同様に、神の前にやってはならない罪なのに、その事実を神の教えから理解していないのは、神の教えは廃れたという

偽情報を信じているからです。偽情報=人が神の教えを捨てよ!と言ったことを神が言ったと勘違いしているからです。

堂々巡りになるのは、聖書ではなく、人の思想を土台、根拠にして、聖書に書いてない人の教えを信じて考え、実践しているからです。

車やパソコンを買ったらマニュアルが付いてきて、その製品に

関する全ての機能が書いてあるでしょう。

それを、その所有者が読まなければ、分からない、知らない

機能がたくさんあるけど、それが製作者が作った製品なのです。

それと同じ。神に造られた人が生きる全てが記されている

トラーを捨てる人は、人がどう生きると神に教えられていることが、理解できない状態、知らないままでいるということです。

 

人間の語る宗教の教え、神が伝えることとは違う生き方は、

未来イエシュアが来られたら、全部一掃、追放される行為であることを、トラー、預言書を知る人なら、理解しているのですが、

神の教えを捨てる人には、何も通じないのです。

 

神の教えを捨てる人は、神が何を罪と定義しているのかも

理解していません。なぜなら、トラーは廃れたので、罪の全貌が

語られている神の教えをごっそり捨てているから、罪に対して

無知なのです。罪の定義を捨てて、知ろうともしないから、

理解していない。

無法がまかり通った教えだけをされているからです。

 

神の聖別された日を汚す行為も、NoNo、罪、ずれた行為であり、そんなことをユダヤ人に強要する方が、無理。罪を犯せ!と

言っているそのものを、強制しているからです。

罪を神の前に犯すことに対して、神の教えを理解する人ならば、断然抵抗するに決まっているでしょう。神の教えを理解し、

知っている異邦人も、汚れた生き方から、完全決別しているのです。汚れた生き方は、神の教えを捨てて、破棄し、人間の教えを買うことから、始まるのです。

クリスチャンが理解していなくても、神の前に罪は何か

神はその定義を永遠に変えていません。

西洋宗教、ローマ教、カトリック教、キリスト教が世界へ伝えられたから、人間が作った思想が神の教えだと勘違いしているのです。

でも、聖書にはそのような別物の教え、宗教をイエシュアや

パウロや使徒は教えてなどいません。

世界へ伝えられたのは、純粋な神の言葉などではないのです。

日本にメシアを伝えに来たのは、フランシスコ ザビエルですが、ローマ教のやり方そのもので、教え別物に変形して伝えることをしました。天竺教の一派と紹介したのです。

しかも、紹介した教え、内容、実践は、トラーではなく、ローマ教、イエズス会の教えであり、純粋な聖書ではないのです。

 

ザビエルは、パウロのようにトラーを教え、異邦人にシャバットや祭りの意味を教え、祝うよう教えましたか?

パウロはコリント人、ユダヤ人の群れで、シャバットごとに

トラーを教え、シャバット、過越の祭りの祝い方を教えていた

ことが記されているでしょう。

パウロのように、正しく聖書=トラーを教える教師は、日本には来ませんでした。

外国人が日本に伝えたのは、純粋な神の言葉、教えではなく、

人間が作った宗教、ローマ帝国教を伝えたのです。

 

人が知らなくてはならないのは、人間の思想を混ぜた宗教の教えではなく、神の言葉、元に書かれた通りの神の言葉、教えです。

 

世界に駆け巡った人造ローマ宗教の教えだから、ローマ帝国皇帝が作った日曜礼拝、クリスマス、イースターを教えたのです。

そして、神の教えは廃れたという偽の教えを伝えてしまったのです。イエシュアやパウロ、1世紀の使徒達、人々はそんな偽物の教えは教えませんでした。

カトリックは万聖節、聖人の日でもそれは異教神の

死者の霊、日本で言ったらお盆みたいな感じでしょうか。

死者と交信、死者に祈るなんて、そんな教えは聖書ではないでしょう。そういう、聖書ではない教えを、果ては悪霊と交信するのと同じようなことを教える。

 

ローマ教は、聖書ではない教えをふんだんに編み出し、同時に

プロテスタントも聖書ではない教えと完全決別していないことに

全く気がついていないのです。

異邦人の国々に伝えられたのは、人造宗教である!ということを

先ず知った方が良いです。

 

1世紀からのローマ帝国皇帝達は、ずっと神の教え=トラーを

生きて、教え、神のシャバットや祭りを祝うことを、勅令と

重税、投獄で禁じ、ユダヤ人達を弾圧し続けていったのです。

神の言葉を変えたのは、人間であり、神ではない!といくら

聖書に書かれた事実を伝えても、聖書に書いてあるのに、

クリスチャンに通じない不思議。それは神の言葉の進化論を聞いている人には、嘘でも本当と皆が思い込むからそう考えているのです。

クリスチャンは、こう考えていませんか?イエシュアはキリスト教という新しい教えを教えに来た。古い律法を破棄するために

来られた!と。

そして、ユダヤ人は、イエシュアを異邦人の教祖様、ユダヤ人を迫害するリーダーとまで考えているのです。

異邦人の作った宗教のリーダーであるジーザス、タナックに記されているメシアとは違う!そうです。そのメシア像は偽物です。

 

クリスチャンも、メシアが地上に来て、処刑され昇天された後

新しい教え、キリスト教という教えがメシアにより教えられ

そして、今までの古いユダヤ人の教え=律法は廃れたと考えているでしょう。

神の教えに対して、敵対心を持っているのです。

古い教えに戻る人、十字架で古い教え=厳しい律法を破棄して

神の教えから解放してくださったのに、それに戻るのは、恵を

捨てた生き方だ!

この解説は、パウロが書いた手紙の意味を、1000%誤解し

ダービー、デイスペンセーショ神学で、聖書を曲げて読み、

無茶な解釈を加えている結果なのです。

聖書を正しく読み取っていないからです。

 

変わるべきは、人間の内側であり、神の言葉ではありません!

神の言葉に照らし合わせて、人は以前の生き方、考え方、意識を変えられて行かなくてはならないことを神が教えているのに、

神の言われることを全く正しく理解していないのです。

 

皆がそういう、教師がそうそう教えるから、律法は廃れた〜

律法に戻る悪い生き方、恵を捨てている!と、そう思い込んでいるだけなのです。

神の言葉を捨てることこそ、恵、宝、祝福そのものをドブに捨てる行為なのです。言葉=神=イエシュア=聖霊と書いてあるのに、その意味が全く通じていないのです。

 

聖書学者と名乗るアメリカ人、テニー氏も、使徒行伝には、神の教えが変わる途上、過渡期の時代のことが書かれている!などと

とんでもない偽情報で使徒行伝を解説しています。

聖書を教える教師が、正しい聖書解説をしていないのです。

このように、聖書を正しく理解しない西洋人、異邦人、

ローマ帝国が作った宗教の教えを研究する人、ダービーのように

その宗教からデイスペンセーショ神学などというものを作った人も同じですが、ダービー教の思想を信じる聖書教師が、

ダービー教の教えを教えて、正しく聖書を解説していないのです。

神が言われた通り、神の言葉に付け足し、差し引きするな!

それを、真っ向から違反しているのが、ローマ帝国教の宗教

思想なのです。

だから、そのような教師の教え、聖書解説だけを聞かされ、

聖書に記されている本当のことを教えられないままでいれば、

一般の生徒=神学校の生徒、その偽物の教えを学んだ生徒が

先生となって、又聖書とは違う教えをその教師が一般の信徒に

教えれば、正しい聖書理解ではなく、神の言葉を破棄した人間の教えを土台に、聖書=神の言葉の方を曲げ、歪め、否定し、

聖書にない思想、教理を教え続けて今に至っているのです。

 

聖書ではない思想をずっと教え続けられ、脳回路に聖書ではない、人間の思想で解説された曲がった教えが聖書であると思い込まされてしまっているのです。

こういうことが、2世紀以降異邦人の世界でずっと行われて

来たのです。

神の教えの進化論を解説しているのです。

進化論を解説する科学者は頭脳明晰ですが、人格者も大勢いるでしょう。でも、神の創造の事実を曲げる人間が編み出した仮説=架空の学問を熱心に研究し、世界へ論文を発表し、書物を書いています。

神の言葉の進化論を学問とする学者は、聖書を利用して架空の

教理、聖書ではない教えの学問=人間の思想を学問し、

論文を発表し、書物を書いているのです。

ある部分は、聖書の事実でも、神の言葉が廃れた!という思想を

土台に人間の思想を展開し続ける、それが架空の学問=神学というものになっているのです。

事実ではないことを、事実であると言い続ける。

神の言葉は変化していないのに、神の性質も変化していないのに、購い、救いは1つしかないのに、変化した、進化した

神の教えは破棄された〜 これこそが人間の編み出した偽物の

教えが混ざった宗教の実態なのです。

ある部分は、事実。メシアの購い=永遠の中に屠られた子羊の血の購いの代価で、永遠の中に選び取られた人が新しい人〜元の

自分を取り戻し、神の元に戻る!聖霊が内側に住う。

どの時代も同じ。それを、違うように解説するのです。

1)神の言葉、教えは時代ごとに変化する

2)神の性質も、時代ごとに変化する

3)神の救い、購いの業も時代ごとに変化する

 

これらが、人間が編み出した教えであり、信仰の土台である

神の言葉をひっくり返す、聖書に警告されている、あざけるものがすることをしてしまっているのです。

これら、1、2、3に記したことは、全部人間の思想であり

神の教えなどではありません。

そして、神の言葉に対して、クリスチャンは敵対心を持たされています。持ってなどいない、聖書を読んでいるしと思う。

でも、古い教えを生きることは悪いことだと考えているでしょう。

その古い教えとは何であるか、よく考えていないのです。

神の教えに古いも新しいもないのです。

全部丸ごとで1つであり、聖書は最初から最後まで丸ごとである

神のトラーを解説しているものです。

神のトラー以外に、神の教えはありません!人間が編み出した

思想は、神の教えなどではありません。

異邦人は自分に馴染みのない教え、都合の悪い教え、理解できない教え、それらを破棄された!と言っているのです。

そして、イエシュアが語った言葉や、パウロの手紙を完全に誤解しているのです。

ウイートン大学という名門神学校と呼ばれる学校で教える先生が聖書を正しく理解していないなら、どうして生徒が正しく聖書を理解できるようになるのでしょうか?

神学校で学ぶべきは、パウロ達ように、ヘブライ聖書をヘブライ思索で、聖書に書いてある意味通りに学ぶこと。

人間が編み出した宗教や、神学などそれら、元々聖書ではない

思想を学んでも意味ないのです。

偽札ではなく、本物札が何かを見る、知る、学ぶ。

聖書ではない、人間の思想を学び、オリジナル聖書に書いてあることを、人間の思想を通さないで学ばないから、何が書いてあるのか誤解するのです。

偽物を学んでも、本物は見抜けません。本物を学んだら、何が

偽物か、本物に照らし合わせて識別できるようになるのです。

 

人の意見は色々ありますと言い訳されますが、こういうことです。神の言葉は、人の意見や解釈ではされません。

詰まり、何が書いてあるのか?という事実だけを先ず知る、

捉える、学ぶことです。

そして、それからその真理の中では、あれも、これも、それも

教えられている!ということを発見し続けるのです。

神が言ってもないことの中には、そこには真理はないのです。

どこまで言ってもそれは偽情報に過ぎません。