There never was a pulpit like the cross

by The Vocal Union
There never was a pulpit like the cross

by The Vocal Union
さて、母の折れた腕のことが気になり昨日再び電話をしました。
電話に出た母に、腕の具合はどうか聞いてみたところ、既にギブスを外して包帯だけの状態になっているとのことでした
「なんか、ギブスが外れるのが早過ぎる気がするんだけど大丈夫か...?」、と内心思いながらも母から詳しい話を聞いてみました。
「一週間ぶりにお医者さんに診てもらったんだけど、ギブスがカタカタ鳴るから、一度ギブスをノコギリで切って外して、もう一度取り付けることにしようかってなったの。それで外してみたら、あれほどパンパンだった腕の腫れが見事に引いていたのよ。それで、ギブスがカタカタ鳴ってたのは、パンパンだった腕がしぼんでギブスとの間に隙間が出来たからなんだって」
「へー、そうなんだ。でも、早くにギブスが外れて良かったね」
...と腕を折った事のない私は、すぐに母のギブスが外れたことを素直に喜びました。
「でもね、『一週間で腫れが引いて、ギブスが外れた人を今まで診たことがない。普通だったら三週間くらいはかかるはずなのに』って、先生が看護婦さんと言ってたのよ」
「三週間しているはずのギブスが一週間で外れちゃったんだ、すごいね。きっと、神様が早く腫れを引かせて下さったに違いないよ、感謝だね」
「ホント、神様感謝します」
それから、母がお風呂に一週間ぶりに入った時のことを話してくれました。
ギブスが外れて楽になったのは良かったのですが、お風呂から上がった時に再び包帯を巻かなければなりません。
家には一応父もいるのですが、殆ど何も出来ない感じ(口は達者なのですが)なので、母がどうしたものかと考えた結果、脱皮策(包帯からうまく腕をすり抜かせ外し、またそのまま腕を包帯に入れる方法)を講じて、無事久々のお風呂に入れたそうです。
まー、母の人生色々ありますが、神様の守りの御手の中で母が支えられていることをいつも感謝せずにはいられません。
Thank you Lord!
昨日の午後、一週間ぶりに実家の母に電話をしました。
日本時間は、夜の10時半ごろ。
寝てるだろうな、と思いつつ母の声を待っていると、「もしもし...」と受話器の向こうからいつもの声が聞こえてきました。
「もしもし、お母さん。もしかして寝てた?」
「...。お母さんね、骨折っちゃったのよ」
「え、何で?」![]()
大丈夫なのだろうかと思いながら、なぜに腕の骨が折れたのか、その経緯を母に聞きました。
「朝、〇〇(常連客)さんから、店に行くから開けてて欲しいと電話が来て、台風だったんだけど店に行って鍵を開けようとしてたら、突風が吹いてきて、傘が飛ばされそうになったと同時に自分も後ろの土手にひっくり返っちゃったのよ」
その拍子に変な腕のつき方をしたらしく、起き上がった時に腕がブランブランの状態になっていたそうです。
普通だったらその時点で腕が折れたと気付き、病院に駆け込むのが当たり前のような気がするのですが、そこは流石に我が母、折れたとも思わず痛みに耐えながら、神様に癒して下さるよう祈りつつ店をやっていたというではありませんか。![]()
しかし、腕がブランブランになっているにも拘らず、腕が折れていると思わなっかという母に、私は思わず笑ってしまいました(笑っちゃいけないんですが)。
それから、二日ほどその状態で放って置いたとのことです。
私は、母に聞きました。
「よくも二日間も、痛いのに放っておいたよね」
そしたら母曰く、 「神様に、癒して下さるよう祈って祈って祈りまくったわよ」
案の定、二日後に腕が腫れてきたということで、兄にも薦められて病院に行ってみたところ、折れていると診断されたとのことです。
しかしながら不思議な事に、折れたと診断されたにも拘らず、病院で撮影した4枚のレントゲン写真には、折れているような痕跡が写って(見えて)いないとお医者さんに言われたそうです。
神様は、この二日間の間に、母の折れた骨を繋げておいて下さったようです。
でも、腫れて痛くて動かない訳ですから、折れていることは間違いないということで、ただいまその腕に石膏を巻いているとのことですが、「これが邪魔で、外そうとしてるんだけど、なかなか外れないんだって」とこんなことを言っておりました。
まー、何はともあれ、腕が折れただけで大事に至らずに済んだので、良かった事にしておきます。
Lord, thank you for protecting my mother!
ここ最近、聖書の講読から離れ気味でした。
何となく、聖書を学ばせまいとしている見えない力が働いていたような気がします。
今現在もその見えない力は、私の神様の御言葉に対する思考能力を低下させようとして、躍起になっている感じがします。
しかし、これではいけないと思い、聖書の学びがスムーズに出来るよう神様に祈っています。
そして、示されたのが第一コリント13章です。
1)たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
2)また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
3)また、たとい私が持っているものの全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだをやかれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
4)愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
5)礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
6)不正を喜ばずに真理を喜びます。
7)すべてをがまんし(おおい)、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
8)愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
9)というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
10)完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
11)私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
12)今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とをあわせてみることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13)こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
さて、もしもあなたが現在教会に通っているなら、あなたはその教会のクリスチャン兄弟姉妹を心から愛しているでしょうか。
また逆に、あなたは兄弟姉妹から愛されていると実感できますか。
もし、そのような暖かい関係が成り立っている教会は、神様に喜ばれるとても素敵な教会だと思います。
しかしながら悲しいことに、今の世の中そのような真の愛に満ち溢れた教会は、ごく僅かな気がしてなりません。
マルコ12:29~31
29)イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
30)心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
31)次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
私から初め人間というものは、人を嫌いになったり憎んだりするのは簡単にできるのですが、逆に心から他人を愛することほど難しいのではないでしょうか。
だから、神様に愛することが出来ない自分を素直に告白し、神様と他人(隣人)を愛せる心を与えて下さるよう、祈り求めることが必要だと思います。
また、ある教会とかでは、賜物や奇跡を重んずるあまり、肝心な「愛する心」をないがしろにして、教会の権威を振りかざしながら、信徒を教会の奉仕にがんじがらめにしている教会(牧師さんたち)があるようですが、私達キリスト者は、イエス・キリストを土台とした神の教会の一員であるとともに、一個人としても神様の栄光を自由に世の人々に表していく権利も与えられているのだと思います。
マタイ18:19~20
19)まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
20)ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
たとえ、二人でも三人でもイエス様の名の下に集まり、そこで心を一つ(御霊の一致)にして祈り、神様を心から褒めたたえ、共に励まし合い慰めあっていく場所こそ、神様がまず求めておられる教会なのではないかと思うのですが...どうでしょうか。
その次に、賜物であり奇跡がついてくるのであって、愛が伴わなければ、その与えられた賜物や起こった奇跡は、神様の下においては何の意味をも持たないような気がします。
間違わないで下さい。
神様の権威が教会の権威の先に来るのであって、決して教会の権威が神様の権威の前に来てしまってはいけないことを...。