何とかなるさ...の世界!? -137ページ目

何とかなるさ...の世界!?

いろいろごちゃ混ぜで書いてます。

YouTubeBaal Temple Now Arch of Triumph

とうとうバアルの凱旋門 がトラファルガースクエアに設置されてしまいました。

士師記2章11~15
それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行い、バアルに仕えた。
彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。
彼らが主を捨てて、バアルアシュタロテ に仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。
それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことが出来なかった。
彼らがどこへ出て行っても、主の手が彼らにわざわいをもたらした。
主が彼らに誓われたとおりであった。
彼らは非常に苦しんだ。

ヨシュア記23章16節
主があなたがたに命じたあなたがたの神、主の契約を、あなたがたが破り、行って、ほかの神々に仕え、それらを拝むなら、主の怒りはあなたがたに向かって燃え上がり、あなたがたは主があなたがたに与えられたこの良い地から、ただちに滅びうせる。

ホセア書4章2、3節
ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。
それゆえ、この地は喪に服し、ここに住む者はみな、野の獣、空の鳥と共に打ちしおれ、海の魚さえも絶え果てる。

イザヤ書5章
20)ああ、悪を善、善を悪と言っている者たち。
彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。

24)それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯れ草をなめ尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も、ちりのように舞い上がる。
彼らが万軍の主のみおしえをなえがしろにし、イスラエルの聖なる方の御言葉を侮ったからだ。

30)その日、その民は海のとどろきのように、イスラエル(彼)にうなり声をあげる。
地を見やると、見よ、やみと苦しみ。
光さえ雨雲の中で暗くなる。

ルカ17章28~30章
また、ロトの時代にあったことと同様です。
人々は食べたり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
人の子の現れる日にも、全くそのとおりです。

マタイ24章12、13節
不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。




おんぷWonderful Merciful Savior ♪
by Selah

ヨハネ11章25、26節
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
今週に入って立て続けに、亡くなった知人達の夢を見ています。

これまでに死んだ人の夢を見たことなど一度もなかったのですが、今週になって一気に3人の人達が別々の夢に現れました。

月曜日の朝方に見た夢には、昨年10月にくも膜下出血で亡くなった、高校時代寮で一緒だった友人が現れ、他愛のない会話をしたのを覚えています。

彼女と最後に会ったのは、20年位前になるでしょうか。

そして、最後に彼女と連絡をとったのは、4年前私がイギリスに立つ前に、津波で亡くなった(今も行方知れずの)もう一人の友人の御香典を彼女が集めていた時でした。

彼女はそのもう一人の友人に連れて行かれちゃったのかな、と何となく思ったりしています。

でも、夢の中の彼女はとても穏やかだったので安心しました。

そして、なぜか夢の中の私達は制服姿の高校生でした。

次に見たのが水曜日の朝方で、これがまた何でという人物なのです。

その人物とは、大学時代にお世話になった教会の牧師先生でした。

卒業して以来全然連絡をとっていないので、詳しいことは知らないのですが、数年前ネットで調べたところ、既に亡くなっていることは分かっていました。

その牧師先生と私が食事を共にしている夢を見たのです。

そして、食事の前に一言二言私に語ってくれたのですが、私が覚えている言葉は、『御霊の実』と別の聖書の箇所だけです。

『御霊の実』については、最近母と電話で語り合っている内容でもあったので、これはきっと神様が私に最も重要な事なのだと示して下さったのではないかと思います。


音符Fruit of the Spirit 音符(御霊の実)
by Terry Butler

ガラテヤ5章22~26
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる立法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

もし私達が御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

コリントⅠ13章
1)たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

2)また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

3)また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

4)愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。

5)礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

6)不正を喜ばずに真理を喜びます。

7)すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

8)愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならやみます。知識ならばすたれます。

9)というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

10)完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

11)私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

12)今、私達は鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

13)こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのはです。


神様は、私達に『御霊の賜物』よりも『御霊の実』の方を育てて欲しいと願っておられるのではないでしょうか。