暗闇から光へ…〈教会を蝕む危険な信念〉 | 何とかなるさ...の世界!?

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いろいろごちゃ混ぜで書いてます。

 

 

このビデオでは、現在多くの教会において、カビのように蔓延している五つの危険な信仰について触れています。

 

このような事態を制御不能なまでに拡大させている問題点が二つあります。

 

1)人々は聖書の完全性を信じていない。

 

これらの人々は、聖書に問題があり、間違いだらけで、文字通りに取るべきではと考えています。

 

2)聖書知識の欠如

 

なぜなら、人々は単に神の御言葉を知らないからで、それは、彼等が聖書を読んでいないか、或いは、牧師が御言葉を説いていないからです。

 

これら二つの事が、教会における誤った教えを招いています。

 

《今日の教会を破壊している事柄、ベスト5》

 

1)平等主義と相補主義

 

悲しいことに、多くの人がガラテヤ3章28節の御言葉を誤解しているか、或いは、周囲の文化の思想に基づいて、誤った物の見方をしています。

 

ガラテヤ3章28節

ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

 

フェミニズム(女性解放思想)が多くの人々を、女性が男性にできることは何でも出来ると思い込ませている事を、はっきりとさせておきたいです。

 

残念ながら、神の御言葉によれば、それは真実ではないのです。

 

女性は、一人の妻の夫になることは出来ません(第一テモテ3章2節)

 

聖書には、誰一人として使徒も牧師も、また、聖書を執筆した女性は登場しません。

 

更に、第一テモテ3章1節から7節では、牧師と長老について書かれており、「彼」「彼に」「夫」「彼の」という単語が十二回出て来ます。

 

また、ガラテヤ3章28節には、神の愛と愛情について書かれており、それは男女、奴隷と自由人、ギリシャ人とユダヤ人に対しても同じなのです。

 

この聖句は、神から与えられた役割とは何の関係もありません。

 

はっきり言うと、神は牧師と長老の役割を男性だけに与えているのです。

 

そして、女性がそれをするように召されていると感じたり、自分にはその能力があると思っているからといって、それは、何の意味もありません。

 

なぜなら、神がそれを禁じているのですから…。

 

2)「教会はイスラエルである」という信念(超越主義)

 

これは、教会がイスラエルに取って代わったという見方であり、全くもってゴミのような教えです。

 

イスラエルと教会は違うものであるという見解は、新約聖書で明確に教えられています。

 

使徒2章によれば、教会はペンテコステの日に誕生した全く新しい創造物であるのです。

 

そしてそれは、携挙で天に召されるまで続きます(エペソ1章9~11)

 

教会は、イスラエルに対する呪いと祝福については、何の関係もなく、モザイク契約の約束と警告は、イスラエルに対してのみ有効であったのです。

 

また、ローマ11章は、イスラエルが過去2000年間、脇に置かれていたことをはっきりさせています。

 

☆教会は、決して約束の地ではない。

☆教会は、土地を占有した事はない。

☆教会が、罪によって土地を追い出された事はない。

☆教会が、その土地に回復すると約束された事はない。

 

教会を新しいイスラエルにしようとするのは、危険な教義です。

 

なぜなら、神の御言葉を間違って理解し、誤った見方をしてしまうからです。

 

3)安易な信仰主義

 

最近どこでもあるような安易な信仰主義は、ただ祈りを繰り返し、ただ事実を信じ、ただイエス様を心に招くだけです。

 

では、今日、安易な信仰主義は、ただ私達に何をもたらしたのでしょうか。

 

それは、何百万人、何千万人という偽の改宗者を生み出し、彼等は自分達が救いの役割を果たしたと信じ、福音が何を言おうとしているのかさえ知りません。

 

しかし、人生のある時点でイエス様への決心をし、そして救われた...。

 

全くもって違います。

 

安易な信仰主義は、感情に基づいていており、薄暗い照明とムード音楽でしょう。

 

そして、前に出て、イエス様を心に求める長い呼びかけがあります。

 

そんな事、聖書のどこにも書かれていません。

 

イエス様と使徒達は、このような事は一度もしていません。

 

救いの正しい理解は、ある人達が言うようなロードシップサルベーションなのです。

 

※ロードシップサルベーションとは、信仰のみによって救われますが、救われた信仰はキリストの主権への服従が伴い、それは、実としての従順な信仰生活につながると教えています。

 

ロードシップサルベーション   安易な信仰主義

 

救われる道は狭い        職に着いている人は誰もが、

(マタイ7:14)         その職に着いている。

                                                (訳が変かも…すみません)

 

信者はみな良い実を結ぶ     木は良くても、悪い実が成る

(マタイ7:17)          事もある。

 

「主よ。主よ。」と言う者    「主よ。」という者は誰でも

全てが救われる訳ではない。   それで十分。

(マタイ7:21-23)

 

真の救いは、信仰の証拠に    変化の証拠は必要ない。

裏打ちされる。

(第二コリント5:17)

 

ロードシップには従順、罪に   安易な信仰主義では祈りを繰対する打ち砕き、変えられた   り返し、一連の事実を信じる

人生、また、イエス様が守っ   だけで良く、人生のある時点

て下さる事が必要である。    で一度信じた事が最後まで守

(ヨハネ14:15、ユダ1:24、   られる。

25、マタイ5:3-7)

 

悲しいことに、イエス様を救い主として見る事は出来ても、自分の主(人)として見ようとしないという問題を抱えている人が、あまりにも多いのです。

 

使徒行伝を見ると、イエス様が救い主として言及されているのは二回だけです。

 

しかし、イエス様をとする記述は九十回以上あります。

 

自分のためにではなく、イエス様のために生き、イエス様に従い、イエス様に仕える…。

 

前に多くの人が言ったように、イエス様が全ての上に立つ主権者であるか、全く主権者でないかのどちらかです。

 

4)世界教会主義

 

これは、全ての教会と信仰が団結する必要があるという信念です。

 

この事は、この動画の図に見る事ができます。

 

面白く思えますが、そうではありません。

 

これは、聖書にない無意味な事です。

 

イエス様は、ヨハネの福音書14章6節で、彼こそ道であり、真理であり、命であって、この方を通してでなければ、誰も父のもとに行く事は出来ないと言われました。

 

救われる方法は沢山あって、自分に合うものを選べばいいとは言っていません。

 

全然違います。

 

また、ユダ1章3節には、聖徒達に永遠に伝えられた信仰を求めて、私達は熱心に主張すべきだと書かれています。

 

更にパウロは、ガラテヤ1章6節から9節で、イエス様や使徒達が宣べ伝えた事と異なるメッセージを宣べ伝える者は、忌まわしい者、呪われた者であると言いました。

 

5)包括主義

 

この信念は、何をした人であろうと、誰であろうと、何を信じていようと、誰もが歓迎されるというものです。

 

これはまた、とても愛情深く、肯定的な事のように思えますが、聖書のどこにも教えられていません。

 

イエス様はマタイ10章34節から36節で、「分裂を引き起こすために剣を持って来た」と言われ、マタイ25章32と33節では、「羊と山羊を分けられる」と言われました。

 

イエス様が唯一の道であり、真理であり、命であるなら、イエス様は羊と山羊を分けられるでしょう。

 

という事は、イエス様が唯一の道であり、真理であり、命であるならば、偽りの道や偽りの真理が存在し、それらは機能せず、救う事はできないという事になります。

 

聖書の中で、包括的である事を肯定している箇所は一つもありません。

 

他の言葉では、誰もが救われるという「万民救済主義」と言われているものです。

 

大宴会をして、クンバヤーを歌い、手を繋いで、私達は天国に行こう!

 

いや、それは全く誤りであり、また聖書のどこにも書かれていません。

 

聖書には、多くの人々が地獄に落とされている箇所が沢山あります。

 

それは、包括的なものではありません。

 

しかし、もう一度言っておきますが、これらの信念の問題点は、聖書の知識が無いことにあります。

 

神の御言葉を信じていないこと…。

 

耳障りの良いものには何でも引っかかる。

 

悲しいことに、それが今日の私達の現状なのです。

 

いわゆる、クリスチャンと世俗との違いを見分けるのは難しいのです。

 

つまり、殆どの場合、唯一の違いは教会への出席でしょう。