恵みが増し加わるために... | 何とかなるさ...の世界!?

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いろいろごちゃ混ぜで書いてます。

 

 

ローマ書6章1節

それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。

 

さて、私達が始める質問があります。その一節から私達の質問が始まり、その質問は私に、あなた方すべてにすぐさま二つのことを問うように強いるのです。

 

あなた方は、この質問をしたことがありますか。

 

若い人達、私があなた方に一二度、直接お話しても構いませんか。

 

あなた方は、この質問をしたことがありますか。

 

私達は、恵みが増し加わるために、罪を犯し続けましょうか。

 

もしあなた方が質問しないのならば、私はあなた方が、事実に直面しなくてはならないかもしれないと思います。少なくともあなた方の多くは、実際にはクリスチャンではないという事実に直面しなければならないでしょう。

 

ローマ書1章から5章までを理解し、その質問をしないのは非常に難しいことでしょう。もし、1章から5章までを理解していないならば(実際にはありそうですが)、あなた方は、福音を理解していなかったということです。そして、率直に言って、あなた方はクリスチャンではないのです。

 

ローマ書5章に何が書かれていますか。それは神がそうであることを私達に告げています。そして、あなた方が誰であろうと、またあなた方自身について何を言おうと、あなた方は、神がいることを知っています。あなた方は、自分のことを知っているのと同じ方法でそれを知っているのです。

 

あなたはまた、自分の隣に座っている人物ではないことを知っています。そして、あなたは神が永遠であることを知っています。あなたは、自分のしていること、また神が見えないこと、神が力強いこと、またあなたを造られたことを知っています。そしてまた、あなたは神があなたを裁かれることを知っています。

 

ローマ書1章と2章がそれを教えています。

パウロは、「あなた方は、そのことを全部知っているが、しかし、自分自身を喜ばせるために生きているのだ」と言っています。

 

それ故、神、この神、この永遠の見えない創造的で力強く裁く神は、あなた方男女共に対して激しく激怒しておられます。人々はそのような説教を聞くとすぐに、「まあ、私は全然そんなではない」と言うのです。しかし、「はい、そうなのです」とパウロは言っています。

 

あなた方の何人かは、神の律法とその言葉を持ち、神の規則を知っています。あなた方は聖書を持っていますが、それが言うことを行ないません。あなた方の中には、霊的な育成という特権を持っている人もいますが、そのあなた方の特権を完全には使っていません。

 

従って、クリスチャン説教者として私は、鏡を見ることが出来、鏡の中の人を指差すことが出来ます。ですから、私は、あなた方一人一人に指差して、神の名において、あなた方が有罪であると言うことも出来ます。そして、今日から何が起ころうとも、あなた方はいつも有罪です。ローマ書の1章から5章はこの点を強調しています。

 

それから、もし神の優しさのメッセージであれば、それはそのメッセージと共にもたらされます。神は罪を犯した人々に最高に、そして、素晴らしく親切です。そして、歴史の中で不思議な交流が起こりました。彼等の罪の故に、永遠の見えない力強く創造的な裁きによって罰を受け、罪を被るべき何百万という人々が苦しんでいないのです。

 

なぜなら、彼等の罪は他の人の記録に入れられているからです。それがローマ書1章から5章であり、半分以上がその知らせです。何百万という人々が罪を赦されただけでなく、この世での完璧な人生、唯一の完璧な人生が彼等の記録に入れられました。

 

ですから、福音はこの不思議なやり取りであり、私はそれを使徒パウロのように恥じることはありません。なぜなら、その中に神の義が明らかにされているからです。その義は、罪人達に与えられました。罪を犯した罪人達は、素晴らしい知らせだと見なしていますね。

 

そして、何百万もの人々が、イエス・キリストを信じることだけで、どのようにして罪の赦しと神との平和に入って行くのでしょうか。

 

彼等は何のとりえもありません。彼等は、神に推薦するものを何も持っていません。彼等は彼等にとって有利なものは何も持っていないのです。

 

イエス・キリストは全ての長所を持っています。そして、それらの長所が彼等の記録に記入され、キリストを受け入れるのです。そして彼等は、キリストを受け入れ、キリストが彼等に惜しげなく捧げられたように、福音の中でキリストに信頼します。

 

彼(キリスト)は最後のアダムです。

一人のアダムは私達を台無しにしました。そして、ただ一人のアダムが、一つの素晴らしい従順な人生と、一つの素晴らしい贖いの死によって私達を救うのです。

 

いつ神はキリストを送りましたか。

 

罪が蔓延していた所では、素晴らしい恵みがその周りにあります。もしそうなら、なぜ罪を犯し続けて恵みを増すことが出来るでしょう。

 

そして、福音を理解していた者は誰でも、それ故、時折り6章1節を尋ねてきました。またもし、あなた方がその質問をしたことがないのであれば、あなた方はクリスチャンでないと思われます。

 

神と和解する時です。

 

あなたはクリスチャン化されましたが、まだ改心していません。そしてあなたは、その全ての逃げ道と不思議を理解したことがないという事実を本当に負うべきです。あなたは、神とあなたとの間でイエス・キリストを本当に信頼したことがありません。

 

今朝でさえも、あなた方の多くがキリストに来ることを私は信じます。あなた方は、遂にあなた方が陥っている混乱に気付くことでしょう。そして、あなた方は救い主にやって来るのです。

 

そして、あなた方は彼の恵みと優しさが本当にただであり、また、価値があり豊かで富み、また寛大であることを理解するでしょう。集会においても、あなた方はそのような救い主に来ているのです。

 

それで、あなた方は6章1節がすぐに一つの質問を提起しているのをみます。今度はそれは、私が再びあなた方に尋ねなければならない別の質問を提起します。私達は恵み溢れた罪を犯し続けましょうか。あなた方は、その疑問から神聖さが何であるかを見ることが出来ますか。パウロは、クリスチャンがなぜ罪を犯すべきではないのかという疑問に取り組んでいます。

 

次の章で、クリスチャンが罪を犯していけないのはなぜなのかを、彼は教えてくれています。だとすれば、敬虔とは何ですか。それは、罪を犯さないことです。今これを把握することは非常に大切です。

 

敬虔は、道徳的な質です。

敬虔は、道徳的な質であることを繰り返したいと思います。

 

アダムはいつ敬虔でしたか。彼が庭(エデン)にいた時は、罪を犯していませんでした。

 

イエス様が敬虔であったことをどうやって知っていますか。なぜなら、イエス様は私達の間で33年間、罪を犯さずに生きたからす。

 

全体で、最も敬虔な人は誰ですか。

最も罪の少ない人です。

 

今朝ここで、最も不敬虔な人は誰ですか。

罪が最もある人です。

 

敬虔は道徳的な質です。そして、それは神秘的な品質ではありません。

 

彼等の中には神のことを知りながら、神を探し求めない選択をしている男女がいます。神の内にではなく、神の外で幸福を見つけることを選び決めている男女がいます。選択によって神を享受しない男女がいます。それ故、彼等は成長して年をとって暮らす中で、神を享受しないことを選びます。

 

私が思うところ、私達が神を享受することについて話す時、彼等は、それを全て退屈であると言っています。彼等は、神を享受しないことを選んだのです。

 

彼等は良心を深めたので、それが神であることは知っています。彼等は神を探ることについても十分知っています。彼等はあたかも、この国とこの会衆の中にいるかのように聖書を持っています。

彼等は、イエス・キリストを通して神を知るあらゆる手段を持っています。

 

しかし彼等は、自分達を造った方を知りません。彼等に全ての物を与えるであろう方が、彼等を裁くことになるのです。

 

それは選択です。

有罪の選択です。

 

あなたは、神によって造られ、或いは、神から与えられている息や健康、そして脈動、全ての才能や今まで楽しんだことよりも、それ以上に悪いことを考えることが出来ますか。神の全ての贈り物を持って、神の世界に生きる人生から神を立て上げることは、想像上もっと悪いことになるかもしれません。

 

人間の良心について驚くべきことはこれです。

 

しかし、あなたが私の言うことを信じていなくても、あなたは私が言っていることを信じています。たとえ、あなたが私の言っていることの真実を拒絶したとしても、年月と共にあなたが信じる信念が、あなたの中に根付いているのです。この事実は、聖書が私達に忘れさせないという真実です。

 

終わりの日はあります。

 

人間が作った福音があります。それは、明らかにされたメッセージです。教会が夢見て来た、或いは、神学者達が開発しようと決めたメッセージではありません。

 

神が明らかにされた福音があります。それは、イエス・キリストの福音です。それは神から始まり、神に向かって話し、神に集中し、そして神に来るよう人々に命じます。それは、彼等に罪を止め、自分自身のことを止め、キリストを通して神に来るように命じます。

 

命じる福音以外に福音はありません。

あなた方は、これを理解しなければなりません。

 

福音は訴えますが、その訴えには権威の要素があります。福音は、「来なさい。神が必要としているので来なければなりません」と言っているのです。

 

もしあなたが来ないならば、あなたは不従順になり、反乱を起こすのです。あなたが来ない限り、救いと命はありません。しかし、神が来なければならないと言っているので、あなたは来ます。そして、来ないということは、反乱になるということです。

 

教会の中には、一部の改心した人々がいます。彼等は、「私が望むなら来ても良いし、彼等が私を忘れたいなら来られない」という招待状が来ると思っています。

 

これは神聖な言葉です。それは天の言葉です。それは神の言葉です。

 

神は、罪人達が来たと主張しています。

 

ある者は来ません。多くの者が来ません。皆さん、殆どの者が来ないのです。

 

そこで、使徒パウロは「最後の日が終わる時」と言っています。

 

神は、神を知らない人達に報いを与えるでしょう。それは、私達の主イエス・キリストの福音に従わない人々、彼等の選択です。

 

しかし、たとえあなが、私の言っていることの真実を拒絶したとしても、何年もの間、あなたが信じる信念があなたの中に根付いてるのです。

 

それは聖書が、終わりの日があることを、私達に忘れさせないことなのでしょう。