今日の聖書日課

 

ヨハネ福音書15章9節~17節

 

氣になった箇所は

「私の命じることを行うならば、

あなたがたはわたしの友である。

もはや、わたしは

あなたがたを僕とは呼ばない。

僕は主人が何をしているか

知らないからである。

わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

父から聞いたことをすべて

あなたがたに知らせたからである。」

 

「互いに愛し合いなさい。

これが私の命令である。」

 

”普通”の感覚では

「命じたことを行う」人を

友とは呼ばない。

 

けど、ここでイエスが伝えたいのは

イエスと弟子たちとの関係は

主人と僕の関係とは異なる

ということ。

 

そしてイエスの命じることとは

「互いに愛し合いなさい」

ということ。

 

私たちはこれを行い

イエスの友となりなさいと

招かれている。

 

私はこの招きに

応え続けていきたい。

 

今日の聖書日課

ヨハネの手紙一 4章7節~21節

 

氣になった箇所は

「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。

これが神から受けた掟です。」

 

まぁ、兄弟というところは兄弟姉妹として・・・

 

神を愛する

兄弟姉妹を愛する

 

兄弟姉妹とは

キリストを救い主と信じ、

その父なる神を信じる者たち。

 

よく言われるけど

縦と横・・・

 

この手紙では

クリスチャンを愛せよ

ということだけど

 

せめて

毎日出会う人々

一人ひとりを

大切にするということは

心がけて生きていきたい。

 

愛する対象は

信仰の有無は関係ないと思う。

 

不完全でもよいから

毎日1ミリでもイエスの生き方に

近づくように・・・

 

 

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今日の聖書日課

ヨハネの手紙一 3章1節~18節

 

氣になったのは

「世の富を持ちながら、

兄弟が必要な物に事欠くのを見て

同情しない者があれば、

どうして神の愛が

そのような者の内にとどまるでしょう。

子たちよ、

口先だけではなく、

行いをもって誠実に愛し合おう。」

(新共同訳)

 

という言葉。

 

使徒行伝を思い起こす。

 

「信者たちは皆一つになって、

すべての物を共有にし、

財産や持ち物を売り、

おのおの必要に応じて、

皆がそれを分け合った。

そして、毎日ひたすら

心を一つにして神殿に参り、

家ごとに集まってパンを裂き、

喜びと真心をもって一緒に食事をし、

神を賛美していたので、

民衆全体から好意を寄せられた。

こうして、

主は救われる人々を

日々仲間に加え一つにされたのである」

(使徒行伝2章44節~47節 新共同訳)

 

 

私にとって

使徒行伝のここは

教会の原型。

 

自分自身できていないのだけれど

もし、日本のクリスチャンが一人ひとり

自分の周りにいる誰か一人の人の

必要に事欠く人を助ける生き方をしたら

キリスト教というものが

もっと普及しないだろうか・・・

 

私は甘いだろうか・・・

 

北米には財産共有の共同体がある。

本来、人はそうして生きて行くように

造られているのではないのだろうかと

常々思う。

 

作れたらいいなと思いつつ

どのようにしたものか

わからずに今に至っている。

 

国家や行政には役割があるとして

行政に頼らない共同体があっても

いいと思う。

 

 

 

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今日の聖書日課

 

ヨハネの手紙一 2章7節~17節

氣になった箇所は

15節~17節

 

世も世にあるものも、愛してはいけません。

世を愛する人がいれば、

御父への愛はその人の内にありません。

なぜなら、すべて世にあるもの、

肉の欲、目の欲、生活のおごりは、

御父から出ないで、

世から出るからです。

世も世にある欲も、

過ぎ去って行きます。

しかし、

神の御心を行う人は

永遠に生き続けます。

 

 

 

世も世にあるものも

創造したのは父なる神。

隣人を愛しなさい

敵をも愛しなさい

の隣人や敵はこの世のものに

入らないのか?

 

美しい山々や

木々や小鳥を

愛してはいけないのか?

 

ヨハネの手紙の「愛する」という動詞は

アガペーの動詞形。

私は神の創造したものは

愛したい。

 

ただ、ここで述べられている「この世のもの」って

肉の欲、目の欲、生活のおごり

ということに限定してよいのかもしれない。

 

でもヨハネ福音書でも

「世は言葉を認めなかった」と書いてあるように

「世」は神とイエスに敵対するもの

として用いられている。

 

世は悪がはびこる闇で

その力を愛するな

ということなのかもしれない。

 

 

「愛する」という言葉もどうなのだろう。

アガペーの動詞だけれど

現代では「愛する」が感情的な「好き」と

同様に使われることが多い。

 

聖書が書かれた当時の人々は

アガペーを好きと同じように使うことも

あったのかもしれない。

 

世と世のものに

「執着するな」という意味なら

わかり易いのだけれど

どうなのだろう。

 

無意識な”執着”から来る思いを

”愛”と勘違いしたり・・・

 

「欲」とか”執着”から来る思いって

”衝動”ではないだろうか。

また、コントロールできない。

自制が効かない。

不安定。

爆発しそうなエネルギー。

 

でも「愛」はもっとしっかりと根を張っていて

安定していて

良い実を結ぶのだと思う。

そのイメージが

イエスとつながっている感じ。

イエスというぶどうの木につながっているということは

しっかりと大地に根を張って

安定している。

 

うーん

今日の聖書日課も

いろいろと思い巡らされる・・・

 

 

 

今日の聖書日課

 

ここで、わたしパウロは

あながたがに断言します。

もし割礼を受けるなら、

あなたがたにとって

キリストは何の役にも立たない方になります。

割礼を受ける人すべてに、

もう一度はっきり言います。

そういう人は

律法全体を行う義務があるのです。

律法によって義とされようとするなら、

あなたがたはだれであろうと、

キリストとは縁もゆかりもない者とされ、

いただいた恵みも失います。

わたしたちは、

義とされた者の希望が実現することを、

”霊”により、

信仰に基づいて切に

待ち望んでいるのです。

キリスト・イエスに結ばれていれば、

割礼の有無は問題ではなく、

愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

 (ガラテヤの信徒への手紙 5章1節~6節)

 

 

本当は1節から15節までなんだけど

長いので

6節までに・・・

 

この手紙によれば

大切なことは

かつてイスラエルの民が

神との契約において

聖なる民のしるしであった割礼の

有無は問題ではない。

 

キリスト・イエスに結ばれていること

そして

愛の実践を伴う信仰

これこそが大切なのだ

ということ。

 

やはり

信仰には実践が伴う

それも愛の実践。

 

愛と好きとは別物。

 

大学生時代に読んだ

「愛するということ」(エーリッヒ・フロム)

を思い出す。

 

「愛とは技術である」

「愛する能力の問題である」

と書いてあって

えらく衝撃を受けた。

 

そっか

愛する技術を学べばいいんだ

と思った記憶が・・・

 

イエスは

「敵をも愛せよ」

とも言っている。

 

敵を好きにはなれない。

でも愛せる。

 

愛するとは

神が与えた命を大切にすること。

 

だから

目の前で敵が

あるいは自分の嫌いな人が

病で苦しんでいたら

助ける。

 

好きにならなくてもいい。

 

また

イエスはこんなことも言っている。

 

「この最も小さい者の一人にしたのは、

わたしにしてくれたことなのである」

 

つまり

出会った人の一人に対して

「飢えていたときに食べさせ、

のどが渇いていたときに飲ませ、

旅をしていたときに宿を貸し、

裸のときに着せ、

病気のときに見舞い、

牢にいたときに訪ねる」

 

それは

私にとっては

神が与えた命を大切にすること。

 

私たち再洗礼派メノナイトの祖先たちは

16世紀に迫害され殉教した歴史がある。

 

「殉教者の鏡」

という本には

多くの殉教した人たちの物語が記録されている。

 

その中に

有罪の判決を受け

監禁されていた再洗礼派の人が

脱獄を試みた。

追いかける看守が

薄い氷が割れて湖に落ちたのを

助けたという話がある。

彼は結局捕らえられて

火あぶりの刑に処せられた。

 

彼は

敵が溺れて凍死するのを

見過ごさずに

愛をもって

助けた。

 

私が

16世紀の殉教者たちのように

できるかどうかは

わからない。

 

けど

その信仰に

見習いたいと常に思っている。