調和

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私は
自然の織りなす
美しさが
大好きなのですが

それは
多分
調和がとれているから
かな
と思うことが
あります。

調和って何だろう
と考えると

私にとっては
形や色のバランス

そこから
醸し出す
雰囲気も含めて

トータルを
観て感じて
私自身の中に
感動
温かさ
優しさ
荘厳さ

のようなものに
触れた時

あるいは
そのような感覚に
包まれた時に

美しい

という言葉になるのだと思います。

そのバランスは
黄金比
と言われたりするもの
かもしれません。

それは
私にとっては
神の秩序です。

そう考えると
私にとっては

平和
というより
調和
と言った方が
しっくりきます。


人と人との調和
国と国との調和
モノと自然との調和
人と地球との調和
心と身体との調和
自分と自分との調和
・・・


これらぜ〜んぶ
クリスチャンにとっては
神と人との調和
ということになる…

"和解"
について
最近思いを巡らせるのだけれども

和解も
調和という言葉で
捉えてみたいけど

これはまた
後日…
多分(笑)





死刑執行をめぐって

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今日は

オウム真理教の信徒の

死刑が執行され

教会でも

それに関する話になりました。

 

私は

死刑には反対です。

 

死刑にしてしまえば

それですべて

終わりなのか

 

という疑問もあるでしょう。

 

死刑囚が

いなくなってしまったら

事件の真相が

うやむやになってしまうから

反対という意見もあります。

 

ですが

私が反対する理由は


死刑が

犯罪を犯した人たちの

改心する機会を奪ってしまうからです。

 

「人は変わらない」

「人はそうそう変わるもんじゃない」

と言われます。

 

確かに

そういうこともあります。

 

しかし

変わるのも確かです。

 

それは

私たち人間が

コントロールできることではない

と、私は思うのです。

 

 

また

カルト

に関しても

話題になりました。

 

 

キリスト教会といえども

カルトになる誘惑、危険性は

否定できません。

 

内輪だからこそ

厳しくなりますが

 

牧師の言うことが正しい

牧師が答えを知っている

牧師に従っていれば大丈夫

 

信仰を持ってさえいれば

何事も大丈夫

 

何が善であり

何が正しくて

 

何が悪であり

何が間違いなのか

 

二元論的で

単純な教えを伝えている

教会もあるのです。

 

本来

牧師も一教会員のはず。

 

私の理解は

牧師は

肩書きではなく

役割の一つ。

 

それが

 

「知識」を持つ者が

正しい

 

という

誤った認識をしている

現実もあるのです。

逆の動き

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私が習い、教える

合氣護身術の

動きの特徴の一つに

 

普通と

反対の動きをする

 

ということがあります。

 

たとえば

相手に捕まえられた時

普通の反応として

相手から

逃れよう、

離れようとします。

 

逆に

相手の懐に

とび込んでいく

相手に向かって

近づいていくのです。

 

もちろん

技のかけ方があるものの

自分の力を

より使わずに

相手の力を

制するには

相手から離れてはいけないのです。

 

今朝

というか

多くの時間

私は

日本のキリスト教会のことを

考えてしまうのですが

 

ふと思いました。

 

「教会に人が来ない」

と悩んでいる教会が多くありますが

 

外に働きかけて

人を招こうとする(伝道)よりも

 

逆に

自分たちが

キリストの光を

内から輝かせるように

ベクトルを内向きにして

 

自分たちの在り方を

見直してもよいかもしれません。

 

 

一方

教会内での

一致がないと

悩んでいるのであれば

 

逆に

外にベクトルを向けて

奉仕や伝道ということを

考えてみても

よいのかもしれません。

 

 

「捨て置け」

という教えもあります。

 

相手に

捉えられた身体の部分は

を忘れる。

囚われない。

 

 

そこに

意識が向くと

固着してしまいます。

 

問題、課題と

感じていることを

「捨て置け」

という感じでしょうか。

 

動く箇所を

動かすのです。

 

教会は

キリストのからだ

と例えられます。

 

まだまだ

動く箇所は

あるはず・・・

 

 

 


今日は
トラピスチヌ修道院に
行ってきました。

私は
カトリックでは
ありませんが

カトリックの
修道院や
聖堂の醸し出す

静けさに
心惹かれます。



先日
私の所属する
メノナイト教会協議会で

メノナイト世界会議で
採択されている
信仰告白(共有の確信)
についての
学びがありました。

その中で
「クリスチャンでない人には
わかりにくい」
という感想が
ありました。

それを聞いて
あらためて

信仰告白は
誰に向けたものなのか?

目的は?
なぜ必要とするのか?

と考えています。


私は
自分たちが
何者であるのか

どんなことを信じ
どのように生きていくのかを
言葉にし
宣言するもの

という捉え方でしたので…


内向けと
外向けでは

言葉の選択も異なれば
何を盛り込むか
ということも
異なる。

そして
なによりも
どんなに慎重に
言葉を選んでも

異なる解釈は
存在する

ということを
しみじみと
実感した
学びの時でした…

それを
"限界"と捉えるか

"豊かさ"
と捉えるか…

神は災いをもたらすのか?

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災害が起こった時

人生において

悲劇が

起こった時

 

「なぜ神はこのようなことを

許すのか」

 

「神などいない」

 

という声に

 

「神さまから与えられた

試練」

 

「罪を犯したから」

 

という考え方をする

クリスチャンもいますが

 

私は

神が

災いをもたらす

とは考えません。

 

イエスは

そのようなことを

望むだろうか

 

と考えると

どうしても

そうは思えないのです。

 

自然災害

といっても

人災

という面もあります。

 

温暖化

住宅地開発

家の建て方

戦争

・・・

 

これらの背後には

様々な

人の思いも

絡み合っています。

 

すべて

この宇宙の中の

地球で起きていることで

 

お互いに

何がどう影響し合っているのか

どのように環境に

影響を及ぼしていいるのか

 

複雑な条件の絡み合いで

自然災害は起こると

私は思うので

 

私には

わかりません。

 

ただ思うのは

人間にとって

「悪いこと」が起きた時

 

神のせいにする

 

のは

 

他人のせいにする

アダムとイブに

共通するのかな

ということ。

 

自分の理解を超えた

出来事が起きた時

 

受け止めきれない

体験をしたとき

 

不安

恐怖

怒り

などを

 

感じて

 

どこにぶつけてよいかわからない怒りは

誰かを責めたくなる

 

のかもしれません。

 

そうすることで

バランスを取っているような

氣もします。

 

 

私にとっての

神とは

 

神を責める

人間の氣持ちも

受け止めて下さり

 

不安

怒り

恐怖

憤り

悲しんでいる

 

私たち

ひとりひとりに

 

寄り添っている方です。

 

そして

共に苦しんでいる。

 

 

私が信じているのは

そんな神です。