| 日の出 | 6:07 |
| 日南中時 | 12:11 |
| 日の入り | 18:13 |
| 月の出 | 16:52 |
| 月南中時 | 22:33 |
| 月の入り | 3:20 |
| 正午月齢 (13.0) |
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秋分の日を過ぎ、夜の長さが心地よい季節になりました。
明日(金)は、中秋の名月。 満月の日:9月27日(日)
虫の音に耳を傾けるのも風流ですが、オーディオファイルにとっては、
エアコンの空調音が止まった本物の静寂が部屋に訪れる、最高の季節の到来でもあります。
しかし、部屋が静かになればなるほど、今度は別の闘いが始まります。
静寂の中で目を閉じ、音だけに集中すると、
人間の聴覚と想像力はどこまでも鋭敏になっていくものです。
普段なら見過ごしてしまうような、
スピーカーの向こうの「音源そのものが含んでいる微小な雑音や、客席の気配」までが、
くっきりと浮かび上がって聴こえてしまうのです。
YouTubeなどの画面の「映像」を一緒に眺めているときは、
どうしても目がそちらを追ってしまうため、耳への意識が少し控えめになり、
音もすっきりと心地よく受け入れられます。
それはダウンロード(DL)での音源とはまた違う、
非常に録音の良い、素晴らしいライブの映像音源に感じます。
ところが、ひとたび画面から目を離し、
この秋の夜長の静寂の中で「音だけ」の世界に没入すると、
そのクリアな録音のポテンシャルが高いからこそ、
私のへそ曲がりな耳は、別の贅沢な想像を始めてしまいます。
「配信の枠の中でこれだけ見事に鳴るのだから、
もしこれをCDからWAVでリッピングして、ダイレクトに再生したら
……一体どれほど生々しい鮮度になるだろう。
きっと客席を包む空気の震えや、外野席の気配まで、
鳥肌が立つようなリアルさで地続きに聴こえてくるに違いない」と、ね(笑)。
そう思うと、自分で携帯からアップロードした音源なども含めて、
圧縮音源でどうしても削られてしまう
「鮮度の少なさ」や、あの地続きであるはずの「空気の鮮度」が
もどかしくなってしまうのです。
それはある意味、配信の音源から聴こえてくるかすかな気配を、
どこまで本物の鮮度で引き出せるかという、贅沢な闘いなのかもしれません。
以前、我が家のHDDプレーヤーで、CDから WAV と FLAC の両方を作ってリッピングし、
じっくりと聴き比べをしてみました。
するとやはり、私の耳には WAV の方に、言葉にできない音の「瑞々しさ」や、
空間が地続きになっているような自然な鮮度を感じました。
そのため、そこからFLACの音源などを聴く(聞く)と、
私の中で少しトラウマのようになってしまうのです。
オーディオ界で昔から語られる「電線(ケーブル)で音が変わる」というお話に、
少し似ているかもしれませんが。
科学的なデータや正論を持ち出されれば「気のせい」と言われてしまう世界ですし、
私の思い込み(プラシーボ)と言われてしまえば、それまでの世界なのだと思います。
しかし、一度その「自分だけの感覚」を覚えてしまうと妙なもので、
それ以来、どこかで圧縮データや配信の文字を目にするだけで、
「あの時の WAV の音と比べてどうだろう……」
と、余計な邪念が働いてしまうようになってしまいました。
一種の、贅沢なトラウマ(苦笑)のようなものです。
もちろん、リラックスして音楽を流すときや、手軽に新しい音楽と出会うようなシーンでは、
フォーマットの違いなど全く気になりませんし、その便利さには日々感謝しています。
使い分けてラフに聴くぶんには、配信も本当に素晴らしいシステムです。
ただ、冷え込んできた一人の部屋で、アーティストがそこにいるかのような実体感や、
劇場の本物の空気感に深く没入したい時だけは、
私の頑固な思いが、どうしても WAV を、選ばせてしまいます。
理屈としての正解がどうあれ、
静寂の中で自分自身の耳が心地よいと感じる「私見」をのんびり愉しむ。
それもまた、秋の夜長における、オーディオという趣味のささやかな日常なのかもしれません。
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今日も
ご覧いただき
ありがとうございました
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なにか、WAVの話にも思える ![]()
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