15年以上前、当時50代だった黒人女性とハウスシェアをしていたことがある。彼女はミシシッピ州出身で、普段は看護師として働いていたが、常に異常なほど周りを警戒していた。例えば、ベッドの下に銃を保管していて、暇があればバルコニーから家の外を観察しては、周りに不審者がいないかを確認していた。ベッドルームの壁にはマルコムXの写真。ある日水泳の話題になった時には、「私の地元では白人から逃げるために、黒人の子供達は徹底的に川で泳ぐ練習をさせられた」ということを話していた。

 

 

その時代にミシシッピやアメリカの南部の州で黒人として生きるというのはどういうことだったのか。

 

 

1955年8月、シカゴ出身で当時14歳だったEmmett Till(エメット・ティル)は生まれて初めて母親の出身地であるミシシッピ州を訪れた。母親は都会出身の息子が南部へ行くことに反対したが、エメットは母親を説得し、従兄弟と(ミシシッピから遊びに来ていた)叔父と共に旅行に出発した。母親はエメットにくれぐれも南部では注意するように伝えた。しかし、彼はミシシッピでの「ルール」を理解しきれていなかったのだ。

 

 

ミシシッピに到着して数日後、エメットは従兄弟や他の地元の子供達と共に小さな食料品店を訪れ、キャンディを購入した。そして店を立ち去る際に店員の白人女性(店主の奥さん)に向かって口笛を吹いた。(おそらく、冷やかしたり、好意を表す時に使う「ヒュー」という口笛だったという説が多いが、真相は明らかではない。)当時のミシシッピでは、黒人男性が白人女性と普通に会話をすること、対等の立場でコミュニケーションをとることはタブー中のタブーだった。女性店員は憤慨し、外に止めてあった車から銃を取り出したため、エメットと他の少年たちは急いで逃げた。

 

 

4日後、女性店員の夫とその異父兄弟の白人男性が二人で、夜中に銃と懐中電灯を持ってエメットが滞在していた叔父の家に押しかけ、叔父や従兄弟の目の前で、エメットを無理やり連れ去った。エメットの叔父はお金を渡すからどうか連れて行かないでくれと頼んだが、男性達は無視した。

 

 

エメットはひどいリンチを受け、めちゃくちゃにされた後、最終的に射殺され、鉛と共に川に投げ捨てられた。

 

 

3日後に、エメット少年は識別不可能なほど変わり果てた姿で発見された。エメットの遺体はシカゴに戻され、母親は箱の中の息子を見てその場で泣き崩れた。エメットの母親は、この事実を世界に伝えるため、新聞社の撮影を許可し、数万人が訪れた教会での葬儀では棺の蓋を開けたままにした。
 

 

同年9月にエメット殺害の公判が行われ、彼を誘拐・殺害した二人の白人男性達には無罪判決が言い渡された。男性達はカメラの前でそれぞれの妻とキスをして喜んだ。



軽い気持ちで口笛を吹いたことで、命を落とした14歳の少年。罪の無い少年にひどい暴行を加え、殺害したにも関わらず、無罪判決を喜ぶ大人。。。


殺害されたエメット・ティルの写真を初めて見たとき、私は「あれ、エメットは少年かと思っていたけど、老人だったんだ。。。」と勘違いした。彼の顔は膨れ上がり、グチャグチャだった。

 

 

エメット・ティルの死と無罪判決は、その後Civil Rights Movement(アフリカ系アメリカ人公民権運動)を加速させるきっかけとなり、象徴的な存在となった。

 

 

数年前にTime紙が行なった取材で、弁護士で社会活動家のBryan Stevensonはエメットの死について以下のように語った。

 

"It takes a lot of hatred and a lot of rage to do the kind of violence that was done to Emmett Till. Being a black boy in the American South could be quite perilous.”

 

エメット・ティルに対して、これほどひどい暴力が行われた裏には、相当な憎悪と憤怒があったことが分かる。当時アメリカの南部で、黒人少年として生活することは、それだけで危険であったということだ。