のだめカンタービレの読み過ぎで、クラシックばかりを聴き始め、ついにピアノの練習を復活することにした。
片付けられていた電子ピアノを旦那さんに頼んで、夕ご飯後に組み立て開始
私が楽器を再開することには非常に友好的。
彼はピアノもギターも人に披露して全く恥ずかしくないレベルに弾きこなすため、相方が楽器を再開することは嬉しいのだと思う。クラシックだけを10年(かなり下手で時間がかかったためそれだけ習ってバイエル80番までしかいかなかったほどセンスがない)やった程度では歯がたたない。学校では、彼がピアノを弾くと多くの男子が授業を放棄して、彼のピアノ部屋に集まり好きな歌謡曲や邦楽をひいてはカラオケになっていた。
当時、ほとんど会話をしたことがなかったため、私は部屋から一切でないでひたすら自分の課題を練習していた記憶がある。しかし本当にうまくて、正直ちょっと悔しかった思いもある。
彼は珍しくもクラシックギターを小学生で習っていたため(教室で一番うまかったらしいです)基礎がしっかりしているため、楽譜も読めれるし、エレキギターもフォークギターを独学でやっても、ともかく綺麗な音を出すのだ。子どもの頃に基礎をやっているため、ピアノを弾いても丁寧に、曲の意味を汲み取って弾こうとするため自然に彼のピアノを聴きたくなるのはうなずける。
どうせ弾くなら、ピアノもギターもちゃんと弾きたい、とよく言っていたのは、基礎の徹底があってこそだと思う。
専門学校時代、バンドをしていた彼は、周りから今まであった中で一番上手だとみんなを驚かせていたけど、彼の周りはもっと上手い人がいたそうで、このレベルで一番なのか・・・とぼやいていたことがある。
私は別の側面で尊敬している部分がある。それは楽器には向かない体で上手に弾けていたことだ。
失礼ながら、芋虫のような太短い手で器用に弾くのはある意味天晴れである。残念ながらギターもピアノもアシュタンガヨガ に似ていて、指が細長いと軽々弾ける。大きな手は軽々幅のある和音をおさせてしまえる。
ギターならアルペジオもやりやすいだろうし、FコードやAもあっさり押さえられるのだけど、ふと短いとそんなわけにはいかない。相当努力したんだなということがわかる。
(ピアノの先生も、アシュタンガヨガの先生も、太短い練習生にもう少し優しくして欲しいものだ)
楽器を極めるには骨格がいる。私の手も全くピアノを弾く手に向いていない。それは残念なほど小さすぎて基礎となる音さえ押さえられないため、楽譜をいつも書き直してもらって習っていた。
保育化時代、ピアノ経験者出なくても受け入れてくれた珍しい学校だったため、バイエルの80番くらいをやっていればすでにクラスで5本の指に入る
義務教育では体育と美術以外は赤点専門だった私も、保育科では体育、美術、ピアノ、家庭科(わかる通り、机に座ってやる学問はさっぱりである)に関しては何の努力をしなくても、まさかの成績がしょっぱなから上位の成績が取れたことにはびっくりした。
私の学校では運動神経があまりいい人がいない学年だったのか(私の体育の成績は3〜4程度)クラスで1.2番レベルになるからびっくりである。そもそも体育のカリキュラムが「ゲートボール」という18歳の若い男女がやるにはあまりに謎の体育なのだけど・・・老人介護系の実習のためにルール取得が単位にあるため、体力がなくてもできるカリキュラムが多いので、体力とスキップ程度の運動神経があれば、上位になるありがたい学校でした。
ピアノを18歳まで習ったことがない人たちに保育科で必須となるバイエルを2年で終わらせないといけないため、先生たちも必死である。
少々引けたら「褒められまくり&あっさり単位を取得」できるため、子どもの頃にピアノを習っていた人にとっては怠け放題の単位だった。
私は8年ぶりに弾くバイエルのため、とりあえずはじめからやり直し。私は耳だけで覚えて弾いていたため、指番号はぐちゃぐちゃ、楽譜は読めない、それでも同時は耳が良かったため、大体一度聞けば覚えて適当に弾いてしまう。
そのピアノを見て、私の担当の先生が、
「せっかく引けるのにもったいない。ちゃんと基礎からやり直そう。楽譜を見て指番号も、記号の意味通りに弾けるように2年間頑張ろう」
とポジティブな声がけをしてくれたお陰で(さすがは高額を払う専門学校。お客様扱いが私には良かった)初めてやる気をみせ、耳で聞いてごまかすのやめて、指番号やレガート、フォルテやピアノなどを真面目に学ぶことにした。
基礎の徹底がとても面白くなり、学校でも寮でも(ピアノが無料で借りれた)彼氏も友達もいない初めての大阪生活では、ちょうど良い暇つぶしとなり、ひたすらピアノの練習に明け暮れ、気がつけばブルグミユラー、憧れのソナチネ10番まで弾けるようになった。
ソナチネの許可が出たときは、本当に嬉しく、よりピアノの練習に邁進した。今思えば、アシュタンガヨガの練習に似ていて、単にポーズができてた状態を全部壊して、バイエルの一番はじめからやったことが今では私の宝物だ。
久々にソナチネを弾こうと思ったら楽譜がない。どうやら実家に持って帰ったらしく、手元にはブルグミュラーとハノン、そして専門学校で買いなおした(赤と黄色のバイエルを持参してたけど、買いなおしになった)バイエルが出ていた。
パラリと開くと、本当に初めからやり直している形跡が残っている。先生が丁寧に書いてくれているため、今もわかる楽譜になっている。
絶対音感もどうやら衰退するのか、鍵盤を言い当てることはできなくなっており、こうなると「楽譜とおりに弾ける基礎」だけが頼りになる。
もしあのまま耳だけに頼った練習をしていると、この年になって再開してもバイエルの5番も弾けないだろう。
今回、習い始めにでもいいし、途中からでもいいから「基礎」を徹底することの大切さを痛感した。
単に弾ける、単に順番だけ知っていて雑にこなしたアシュタンガヨガと、基礎を身につけたピアノとアシュタンガヨガの行末は似てるのだ、ということはっきりと感じることができた。
良かった点と気付いた点をあげたいと思う。
@基礎がしっかりしていると、期間が空いていても、またどの歳からでも独学で再開することができる
@たいして努力も意識もしないでぼんやり身についた若い頃の感覚は役に立たない、ということを思い知れたこと
@耳や体が硬くなっていても、基礎が身を身につけようとした「根気」が楽譜と忍耐強く向き合うことができる
@基礎はぼんやりとした意識を直し、明確で深い集中力を養ってくれている。
@単に弾ける、ではなく、その楽譜の意味をリスペクトして弾くことで、見える世界が全然違うということ
@アシュタンガヨガで言えば、トリスターナを含むルールを無視したもの(ヴィンヤサを抜く、好きなポーズだけする、アイアンがーやストレッチなどをコンビネーションするなど)は、小手先では良くても、その作られた人の「真意」を理解しないまま「できたつもり」になるため、ハーフプライマリーが雑でも、フルプライマリー 、セカンド、サードを欲しがってしまう。
@例え昔にソナチネ10番まで弾けてて、全く指も耳もダメになっていても、そこを悔しがることはなく、今はバイエル5番を丁寧に弾くことに面白さを見いだせる。
@ただ弾けることではなく、練習曲でも味わいを見つけることができるため、若い頃(進みたくてしょうがなかった時)にはわからなかった、曲の意義が感じられるようになる
@セカンドやサードを昔やってたとしても、歳をとって再開しても太陽礼拝やハーフプライマリーでも深みを十二分に味わえることができる。
@弾いてるだけで幸せ。それは太陽礼拝ができるだけでも十分満足で幸せ。
@人に認めらる、争いのためには弾いていないため、心が癒される。
アシュタンガヨガもそうだし、楽器の練習もそうだけど(そこにビジネスが発生している人は別として・・・)
もし練習で悩むなら、基礎がなっていない可能性を疑うことをお勧めします。それは表面的なテクニカルルールだけでなく、マナー、哲学、歴史、なぜ学ぶのか?なぜ練習をしたいのか?をいう気持ちから見直してみると良いです。
なんちゃってでもいいんですよ。継続できれは、雑でもいいと思う。
しかし、雑で基礎が脆弱な場合、何かの理由で期間が1ヶ月以上開くと再開できないことが多い。大体やめてしまうか(それでもいい)また再開しようとしても、結局なかなかムラのある練習で安定しないことが起こります。調子の良い日が練習のする日、になってしまい、精神を身につけることができません
基礎の徹底は「精神性」を高めることにつながります。
それは楽器やヨガをやめ、他のことを始めても基礎を身につけることのメリットをまたゼロから始めていける人です。
意味不明な質問を繰り返す困った人にはなりません。さほど努力もしないで早く体が曲がって欲しい、また弾けるようになりたい、ナバーサナがしっかりでいていないのはスルーして「サードやりたい」、「エリーゼのため」などみんなが知っている曲を弾いてみんなに聞かせたいから、それだけ教えて欲しい、という困った生徒になりません。
基礎の取得は忍耐と心の安定感を生み出します。
初めて言うことを聞いてピアノと向き合うと覚悟した2年間は、調理師になった際も同じ精神で技術と向き合い、急がず、基礎を徹底したため、最終的に仕事をやめることになった時もやり残しもないし、後悔がない。
例えば、体を壊したり、家庭の事情などで調理師やピアノやアシュタンガヨガ をやめなければならないとしても、基礎を怠けずやり切った体験があるから後悔がない。
つまり身にもなれば、離れる時に「後悔」も生まない。
そう思うと先生との出会いは大切です。基礎を重んじることができる先生は、基礎が身についている先生です。
一度は厳しくても基礎を重じている先生からアシュタンガヨガを学んで欲しいと思う。
ピアノの先生は音大出ていない人またはヤマハなどのトップクラスに通い先生に師事し続けた以外が、クラシックピアノを教えたりはしないと思うので、基礎を教えられない先生が存在しないのがクラシックピアノの良さです。
アシュタンガヨガは、教えている先生のレベル差があまりにも大きいため、悩んでいるなら先生のバックグラウンドをよく調べ、自分の練習の方向とあっているか?を見つめ直しましょう。教えたい、と思えば教えられる業界。それが「ヨガ業界」です。
ピアノのように基礎ができてる、出来ていないの基準が「バイエル」「ハノン」「ソナチネ」「ソナタ」「平均律グラヴィーア」などの教本が基準ではないため、難しいのです。
もしあなたがアシュタンガヨガの練習で、フラフラしたり(それについて悩んでいないのは構わない)毎日練習(5分でいいので)できずにムラのある生徒であるなら、練習の前に習っている先生としっかり向き合いましょう。
質問が多いならなおです。毎日練習してて質問が多いのは、トリスターナの意味を真に理解していない状態の練習がおおよそ考えられます。(毎日トラディショナルに練習しない状態では質問が増えます。毎日練習してみると消えていきます)
自分の本気度を知るには、基礎に重みのある先生に一度は触れてみましょう。ある程度触れてみて、その重みが合わないならそれでいいのです。
楽器は毎日何年も練習しないと身につきません。あまり楽しくないバイエルを2年弾いてやっと終わるくらいです(いずれバイエルの素晴らしさに気づくまでの基礎が身につくまでは面白さゼロです)
英語も毎日触れて勉強しないと身につきません。
アシュタンガヨガだって同じ。毎日練習しないと順番は覚えられないし、体を思うようには動いてはくれない。
何年もかかることをは面白くはない。何年もかかること、そして同じことばかりの繰り返すのが、楽器、語学、ヨガの練習、その他色んなお勉強です。
長くなりましたが(説教じみててすみません)、基礎は人生を豊かに、そして謙虚さを教えてくれる素晴らしい「鍛錬」の道であることは間違いないと思います。
道なんて極める気も歩くつもりもない、と言う方。それもまた良し。
一度でも何かの基礎を丁寧にすることに興味が湧いた時、このブログを思い出していただければ幸いです。
ただ楽しいだってあって良い。でもただ楽しいなら、そんなに不安が生まれたりはしないでしょ?
不安が生まれると言うことは、それだけただ楽しいだけのヨガやピアノではなくなっている
真剣にやりたい気持ちが芽生えている、とても良い兆候だと思うのです。
そんな時こそ、重みのあることを学べる先生に出会って欲しいなと思います