「あなた、ここ、いいらしいわよ」

 

 

ある夜、

妻が一枚のショップカードを差し出した。

 

 

「はやし鍼接骨院」

 

 

と、白地に黒字の明朝体で、

シンプルに院名と電話番号だけが記載されている。

 

 

「今のあなたには、

 ここがいいと思うの」

 

 

風変わりな僕の妻は、

僕を見るような、僕の周りを見るような、

少しずれた目線でレコメンドした。

 

 

 

 

レコメンド(推薦する)した、

って和製英語は、ちょっと変だ。

 

 

リスペクトした、とかもそうだけど、

「尊敬する・した」と、

動詞に動詞をかぶせてどうしろっていうんだ。

 

 

 

でも、この場合に限っては、

「レコメンドする」が

ぴったりなんだからしょうがない。

 

 

 

文法的なおかしさは、

個人の感覚まで否定できないはずだ。

 

 

 

 

 

こんなくだらないことが

頭をよぎるのは、

僕が病んでいるせいだ。

 

 

転職先の人間関係になじめなくて、

鬼のように首やら肩やら腰が痛い。

 

 

 

前にもこういうことはあった。

 

 

 

 

そうだ、

前の職場で上司と折り合いが悪くて、

 

辞める直前、

首が回らなくなったんだった。

 

 

 

 

うん、はるか昔、

2ヶ月前のことだな。

 

 

 

 

 

 

「あなた、少し、変わってるから」

 

 

 

 

少し残念なものを見るような雰囲気で、

妻が横目で僕を見た。

 

 

僕はおもしろくなかった。

 

 

 

 

「うるさいな、君に言われたくないぞ。

 

 だいたい、それとこの接骨院と、

 何の関係があるんだよ」

 

 

 

 

 

妻は少し顔を傾けながら、

相変わらず

焦点の合っていないような目で言った。

 

 

 

「あなたの体だけ治しても無意味だって、

 結婚15年目にして悟ったのよ。

 

 根本的に歪んでる性格治さないと」

 

 

 

 

 

体調がおかしい時、

たしかに妻は必ず良い病院や

治療院を探してきた。

 

 

その的中率は百発百中で、

妻がレコメンドしたところ(再)は、

必ず僕を回復させてくれた。

 

 

 

 

それがなんだ、こんどは

僕がまるで偏屈でダメな人間、

みたいな言い方じゃないか。

 

 

 

 

 

「体がおかしいだけなのに、

 他、何を治すって言うんだよ?

 

 頭か?精神か?

 ふざけんなよ!

 

 行かない。

 そんなとこ、今度ばかりは行かないぞ」

 

 

 

妻は逆ギレした。

 

 

「そういうところだっつーの!

 

 こんなことでそんな憤慨してたんじゃ、

 そりゃ、どこ行っても馴染めねーわ!

 

 毎回毎回、

 おんなじこと言ってるんだもんね!」

 

 

 

「なんだと!?」

 

 

そんなことあるわけないじゃないか、

ほんの2~3回、

似たようなことあっただけだ。

 

僕は

みるみる顔が赤くなっていくのを感じた。

 

 

 

 

「土曜の9時しか予約取れなかったからね」

 

 

誰がそんなくそみたいなとこ、行くか!

 

しかし、

僕の口が罵詈雑言を吐くより前に、

妻はぴしゃりと言った。

 

 

「それ逃したら半年待ちだからね。

 

 初回半額もなくなるし、他のとこじゃ

 あなたの肩こりも治らないけど、

 お好きなように」

 

 

 

 

 

 

 

 

次の土曜、

 

僕は昭和な長椅子の固さに

舌打ちしながら、

 

少年ジャンプを読んでいた。

 

 

 

 

「はやし鍼接骨院」はジャンプ派だ。

 

 

 

僕はマガジン派だから、

既に気が合わない。

 

 

 

朝一で誰もいないのに、

もう20分も待っている。

 

 

 

イライラし始めた頃、

 

黄ばんだ壁紙の廊下をいく、

 

ぺったん、ぺったん、という

だるそうな足取りが聞こえてきた。

 

 

 

 

白い診療着を着ている白髪頭。

 

 

 

あの人が、

ゴッド・ハンド:林治療師か?

 

 

 

僕の目の前に来ると、

ゴッド・ハンドは

 

「あんたか」

 

と言った。

 

 

 

ゴッドは、診療着の下は、

ランニングシャツだった。

 

 

いや、それはつまり、

オッサンの着る下着だ。

 

 

 

 

四角いバックルのついた

昭和な黒いベルトは、

 

だるだるのスラックスを

だるだる留めていた。

 

 

 

 

「入んな」

 

 

ゴッドは眉間に皺を寄せて

顔をゆがめたが、

 

シャーっと目の前の

間仕切りカーテンを広げた。

 

 

お灸の匂いがわずかにした。

 

 

 

 

中には、椅子がふたつ。

 

施術ベッドは置いていない。

 

 

 

 

ゴッドと真向かいに座る。

 

 

 

「脈、見るから腕かして」

 

 

ゴッドは人差し指と中指と薬指で、

僕の手首をモミモミした。

 

 

 

 

 

 

「で、あんた、どうなりたい?」

 

 

 

 

唐突にゴッドに聞かれた。

 

 

 

 

「はぁっ?」

 

 

どうなりたいとか、普通、聞く?

 

元気になりにきたんだよ!

 

 

 

 

 

 

「やっぱあんた、ズレてるわ」

 

 

 

 

 

え、俺、

なんかしゃべったっけ?

 

手ぇモミモミしただけで、

ズレてるなんて、わかるかよ、

動物園の臭いするジジイめ!

 

 

 

 

 

「ズレてるってことは、

 見たらわかる」

 

 

 

 

 

いや俺、何か骨、ズレてるの?

 

だったら質問しないで、

とっとと治せよ!

 

動物園から帰りたいっつーの!

 

 

 

 

「焦らんでいい、

 今から治療するから」

 

 

 

 

だから俺、何も話してないよね?

独り言?

おじいちゃん、大丈夫?

 

心なしか、ちょっと震えてる?

大丈夫?ボケてない???

 

 

 

 

 

「うるさい!!!

 気に入らんなら、帰れ!」

 

 

 

 

 

え…

ひ、独り言、お上手ですね…

 

 

 

 

 

「この大声が、

 ひとりごとに聞こえるか?」

 

 

 

 

「え、じゃあ、本当に…」

 

 

 

 

 

 

僕はここで初めて、声を出した。

 

はやし・ゴッド・ハンドは、

青筋を浮かべてわなわなと震えている。

 

 

僕は声を出して、

自分の現実感を、確かめたかった。

 

 

 

 

 

「治療するの、しないの、

 どっちじゃ!」

 

 

 

「し、し、します…!」

 

 

 

 

 

 

むすっとした老師は、

僕の目の前に握りこぶしをかざした。

 

 

やばい、殴られる。

これ、そういうシーンだわ。

 

 

 

老師はまた鼻息荒く、

明らかに不機嫌そうになったが、

 

握りこぶしから人差し指を出し、

上から下へ動かした。

 

 

 

「え、え、え?」

 

 

 

 

なんだこれ、体の内側、

体の芯みたいなものが、

ぐいぐい押されているみたいだ。

 

 

 

老師は指を野球のサインみたいに

機敏に指を変え、

 

ある時は右から左へ、

 

ある時は

トンカチで横から叩くようにし、

 

そのたびに

僕の芯みたいなものが押されて、

僕の顔は横に動いた。

 

 

 

ものの5分くらいだったと思う。

 

 

 

 

 

「もう二度と来るなよ!

 

 過去最大級の不快な男だったから、

 二度と来れないようにしてやったわい」

 

 

 

 

老師は捨て台詞のように言った。

 

 

 

 

受付の女性は

ゴッドの奥さんのようだった。

 

 

 

 

 

「あらあら、

 すっかりまっすぐになりましたね」

 

 

 

「は、はあ、そうですか」

 

 

 

 

何を言われているかわからず

生返事をした僕に、

奥様はニッコリと微笑まれた。

 

 

 

 

 

「ここに来ると、

 ひん曲がった性質だって、

 

 まっすぐになるって、

 皆さん仰るんですよ」

 

 

 

 

 

え…

それって、僕の性格、

歪んでましたってこと??

 

 

 

 

「そうですか、

 良いところに来れて、感謝です」

 

 

 

 

 

思わずスルリと言葉が出てきた。

 

 

なんだこれは…!

 

 

 

 

自分の心を点検したけど、

や、や、や!

 

やっぱり本気でそう思ってる!

 

 

 

 

 

 

「軸を通すと、

 本当の自分が出てくるんですよ。

 

 これからきっと、

 良いことが待っていますよ」

 

 

 

僕の戸惑いを眺めていた

奥様は、ニッコリ微笑まれた。