人生と旅・読書 村上春樹感 アメリカ放浪記 -2ページ目

人生と旅・読書 村上春樹感 アメリカ放浪記

人生と読書は切り離せない、体と心のような関係です。人生は旅であり、また、読書も旅です。徒然なるままに書いていきます。コメントお待ちしています。

                                                                              2018.6.1

最近、日本人のルーツにユダヤ人の血が含まれているという説がある。諏訪大社の相似点に、イスラエル民族の儀式や言葉と似ているものが多いという。

日本には、古来より日本神道があった。そこに、仏教がもたらされ、聖徳太子によって、仏教を中心とした国づくりが始められていく。

 

イスラエル民族には、ユダヤ教があり、ヤーウェの神により、選民として導かれ、ユダヤの王として君臨するはずであった、キリストが誕生する。

キリストとは、イエスのことであったが、これを十字架上で殺すことにより、選民としての資格は永久に失われることになる。

 

聖徳太子にも、イエスに似た誕生秘話がある。イエスは、社会の底辺層から立ち上がったが、聖徳太子は、推古天皇の摂政として、高い位置から政治を行った。

この違いは、イエスは神であり、聖徳太子は政治家であるとの違いを明確にしているが、理想と現実でもある、宗教と政治の役割の違いである。

ヤーウェの神は、唯一神であり、イエスと一体である。他に、神はいない。よって、日本に新たな神の降臨はないのである。

 

歴史は繰り返す。この言葉は、当たり前のように反芻されてきた。では、イスラエル民族と、大和民族との相似点はいかなるものか。

それは、どちらも小さな国であり、ローマ帝国とアメリカ合衆国に属国とされてしまった。さらに、ユダヤ人は、イエスをキリストと認められずに、ユダヤ教からイエス教への進化をやめてしまった。もし、あそこで、ユダヤ民族が、イエスをユダヤの王として認めて、イスラエルの王国を築いていたなら、イエスは生きた神となり、世界を征服していたかもしれない。キリスト教という霊的な征服ではなく、実体による神の国ができていたかもしれない。

 

神は、しかしながら、そうならないことは知っておられた。というよりも、これも神のご計画である。ひな形として、アブラハムのイサク献祭により信仰心を試したが、ひとり子イエスの献祭により、神ご自身が人類を救うと誓われたのである。

 

二度と同じ悲しみは味わいたくないから、神は日本にはキリスト教は伝道されずに、すべてを包み込む仏教を用意された。そして、この仏教により、人々を極楽浄土に導かれようとしているのである。

これには、周到な準備がなされるはずである。なぜなら、第二の仏が誕生されるには、それだけの信仰が日本になければならない。イエスの時のような律法学者たちでは、全く受け入れられないからである。

 

ユダヤ教は、当時形骸化して、律法を守ることにより天国に入れると律法学者は人々に、教えを説いた。しかし、イエスは汝の隣人を愛せよと説いた。このギャップは、当時の支配階級の人々には、受け入れられない斬新な教えであり、現在でもまったく通じる、不変の教えでもある。真理とは時代を超え、民族や人種を超えて、光輝くものであり、そうでないものは、真理ではない。

 

釈迦が教えを説いてから、2千5百年が過ぎた。仏教も葬式仏教と呼ばれるほどに形骸化して、その教えを刷新しに来るのが、新しい仏陀であるから、それだけの教えを我々は受け止めることができるのか。現代の常識を覆すような教えを、私たちは、受け入れられるのか。

 

それができなければ、ユダヤ民族の二の舞になる。国はなくなり、大和民族は滅びるであろう。ユダヤ民族は、流浪の民になり、世界に散らばっていった。しかしながら、ユダヤ人の金儲けは、世界に知られ現在に至っている。別の意味で、日本人の勤勉さと技術力も世界を席巻して、エコノミーアニマルと言われた時代もあったのは、歴史の必然性なのか。

 

我々の未来は、まさに、明るいと同時に、新たなる人を受け入れて、その生き方を変えなければならない時代に生きている。それは、耳をすませば判ることである。我をなくせば、聞こえてくるはずである。心を素直にすれば、何が真理かは、判別できる。目の梁をなくしさいと、イエスはいった。目とは、心の意味である。頑迷なイスラエル民族と同等の過ちを起こさずに、心を開いている必要がある。

 

イエスの十字架より、二千年が過ぎ、イスラエル民族には赦しの国ができており、日本には新たな救世主を迎えようとしている。そんな時代を準備するため、天皇制から民主主義の時代造りが行われたとしたならば、戦争で失われた人たちも、天皇制のもとでの単なる戦争の犠牲ではなく、未来のための礎になったことに改めて感謝すべきである。

 

そんな犠牲の上に、使命ある者として生まれた私たちは幸せであると同時に、責任も重大である。後世の人から、良くやったと褒めたたえられるか、あるいは、なぜやらなかったと後ろ指をさされるかは、私たちの行いによるからである。

 

 

 

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ    ☜クリック願います。
にほんブログ村