今日はこの間ここでも取り上げた、私と同じ所にスピリチュアリティの根源があると思っておられる、某大学教授の話になった。

 

「とにかく変わり者で、まじめにやっていればもっと良い大学で教授を務めていたのではないか?」とのこと。

 

尚更いい。ネコかどうかは分からないけども、何か被っているはずだ。

 

一般的に変わり者と呼ばれる人が更に「アイツはおかしい」という位の人じゃないと、きっと意見が合わないと思う。非常識的な議論をしなくては解決しないのが霊性の根源捜索。

 

そこらの学術に毒された人間には、ほぼこの領域の話は「学問的に」喉に引っ掛かって飲み込めないものとなるからだ。

 

私もそこは織り込み済み。

 

 

そういえば、今日ネットのニュースをあれこれ見ていたら、何やらお笑い芸人の村本さんという方が、少数派の意見をSNSで発信して嫌われているんですって?

 

まぁね、個別のことは分かりませんけども、私は日本国というのは、実はガチガチの宗教国だと思っていて、すなわち価値観の共有ができない人は、異種であり危険という心理が働いているものだと思っています。

 

魔女狩りしかり、異文化他宗教には排他的。

 

宗教という言葉が分かりずらければ、それを「道徳心」とか「普通」という言葉に入れ替えれば少し分かりやすくなるかもしれません。

 

っで、今日読んだ記事だと、このお笑い芸人さんが「問題の本質を考えることが怖い国民。余裕がない。」と言っていましたが、上記のことから私はちょっと違った方向の考えなんです。

 

まず第一に、日本は世界でもまれにみる「神道」の敬虔な信仰集団であること。これが島国であるが故に常識として機能しており、だからこそ勿体ないという精神があったり、お天道様(アマテラス)が見ている、バチが当たる、震災時に整列して物資を受取るという概念、精神があるわけです。

 

本質の部分を霊性というものに置き換えれば、それそのものが豊であるということは、すなわち他宗教、多文化すらも寛容的に受け入れる、平静な心であるわけです。

 

言い換えれば、どんな宗教を信仰していようとも、皆で楽しみ苦も分かち合い、認め、共に助け、本質に畏敬の念を持つこと。

 

上記の事から、世界を見ても、宗教で一部が排他的な活動をしたりするのは、その時点でもはや霊性が低く、そしてもはや宗教でもなく、共通の利害を基盤にした「大衆暴徒」の始まりに近いと考えます。

 

じゃあなんで日本みたいな徹底した宗教国が、多種多用な文化宗教、思想、意見を受け入れられずに感情論によって否定されてしまうのか?

 

既に答えを書いてしまったようですが、霊性が豊かではない、引いては過激な例えで言えば、イスラム過激派と同類化しようしているわけです(武力でないだけの差)。

 

これらを踏まえて、下記のお言葉をご確認ください。

 

平成31年1月2日 天皇陛下 新年一般参賀

 

新年おめでとう。

晴れ渡った空の下、皆さんと共に新年を祝うことを誠にうれしく思います。

本年が少しでも多くの人にとり,良い年となるよう願っています。

年頭に当たり我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。

(宮内庁より)

 

と仰られております。

 

注目すべきは「思想の合う人(同一信仰を指して)にとって幸せに」というご挨拶ではないのです。つまり、どのような信仰を持っていようが、自分達とは違う思想を持っていようが、それすらも全て受け入れて安寧と幸せを祈る。実に深いお言葉です。

 

これこそが、霊性が満ちた、まさにヤオヨロズの精神そのもののはずです。

 

であるからして、仮に少数意見であったとしても、それがどれだけ大衆の流れと真反対の意見であったとしても、声に出して言った途端に集中砲火されるのは、霊性の低い民族集団の行う行為であるということを理解する必要があると思うのです。

 

最も大事なことは、自分の言葉であって、世間の風や大衆や流行りではありません。

 

 

災害といえば、先日が満月だったのでどうかなぁ~と思ったけども、やっぱり地震と月の関連性も皆無ではないよね。

 

北海道の地震。