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すみません。
忘れていました。ワインをブログで載せておくねということで載せていなかった。
前にもご紹介したことがある方です。
オーストラリアで葡萄畑を所有されており、他にも自分が美味しいと思うワインを世界中から輸入販売されている方。
「趣味みたいなもんですよ〜」と。
前々からブラインドテイスティングでいつも受賞されていて、ワインを見分ける能力はズバ抜けているなと思っていたら、今度は日本で彼が窓口になっているワインがスペインで「PAGO」という最高ランクを受賞したとのこと。
しかも重たいのにわざわざリュックに入れてお持ちくださって「あげる」と。
私はワインに詳しくないのですが、この快挙の凄さは、例えばフランスだと特級畑「Grand Cru」に匹敵する超有名ワインに肩を並べるに等しいらしいのです。
ん〜彼の舌は改めて凄いな〜。。
ここまで舌で予測できるものなのかな〜。
こいつ↓にもそんな繊細な舌があったら良かったのに(コイツ知らない人すみません)。
秘密の場所に「コンビニおにぎりのワサビ」を袋ごとかぶりついてしまうのですから。
分かります?あの海苔と米が分離されている三角の。
どう見たって黒い物体で、食べられるものだと思わないじゃないですか。
しかもワサビだからね?
コイツは野良でも絶対に生きて行けた!
拾った時に猫を被っていた事に気が付けなかった自分が情けない。
(*秘密の場所とは人間の手が届きにくい彼のお気に入りの場所のこと)
しかも外袋を喰いちぎって海苔とかむしゃむしゃと・・・。
私にも何か突出した才能があれば良かったんだけど、残念ながら…育ち方を間違えてしまったのかな?
ちなみにワインの写真はIphoneで撮ったのですが、バシッと撮れないんですよね〜。仕方がないけども。
わかります?
ワインの側面と机と天井の写真フレームが水平になってるじゃないですか?
一方で、右奥のキラキラした鏡みたいなやつとフレームはどうですか?
歪んでしまって角度がめちゃくちゃなんです。
一眼レフでしっかりしたレンズだとバシッと決まるんですけども。いくらレンズが3つになってもやっぱりダメなんだろうなと。
つまりは、スマホだと人の顔も歪んで撮れているというわけで、実際のその通りの空間に近く写真を残したいならやっぱりスマホで十分じゃないんですよね。
ただ、その辺を理解して↓のように遠近を利用すれば、ワインと右奥の鏡みたいな奴がちょっと揃ってくる。
ま、どれだけスマホが進歩しても、その習性を理解して撮影できる技術力は必要であるという事には変わりはありませんが。
彼のワインはAmazonでも購入できます。
値段と圧倒的な反比例で旨し!!
日本のソムリエは一体何をやっているんだ!?
私を通すとやや安くなることがありますが、やっぱり値段は素晴らしいものの対価なのでHPから頼む方が私は好きですね。
ご興味があれば是非。
わいん蔵・南十字星
追伸
自宅に戻って飲んでみたらビックリ。まるでクラシック音楽の様な立体感のあるワイン。ん~レパートリーが少ないけども、べートーベン田園の第一楽章みたいな感じ。最初に口に含んだ時、「アレ?味が弱い?」と思った瞬間に、「フワぁ~」っと徐々に徐々に味と香りが増してゆく感じ。葡萄を絞る時にプレスせずにそのままに垂れる雫をワインに使っているのだとか。ビックリした。このお値段は安すぎ。
すみません、日数が結構空いてしまいました。
ここのところ、新たなものに興味を持ってしまって、その攻略に真剣になっていました。
それはそれで大成功な結果でひと段落。
お陰で先月末に発売されたばかりの Apple watch 5 を頂けました。
月齢が出るのは便利ですね。
しかし車のハンドルを右に回す度に、左腕に付けた watch のモニターがピカっと光るのが気になる(Applewatchは時計を見る時の腕を上げるアクションで画面が点灯する)。
特に夜の運転の時。
結局右手だけのハンドル操作になってしまいます。
さて、これで最後回。
人間は個々の育ちや、人との係わり合いを含め、「経験」の中で自分の思想というものが形成されてゆきます。
いわゆる好きな考え方と嫌いな考え方。
例え一卵性双生児であったとしても、そもそもの人生における経験は一緒にはならないので考え方は変わる。
そこまでは個の形成として、どなたに説明しても分かって頂けます。
しかし、次の段階から急激に理解者は減少してしまいます。
個と個が係わりあうとき「考え方が違う人を受け入れあう」という部分。
少々日が経ってしまいましたので、この間に載せた画像を下記に再度貼り付けておきます。
人間の本質として、体を壊さない考え方や捉え方、表現方法は「中動」に当てはまると述べました。
そしてその中動とほぼ同じような考え方が仏教の中にあるという事(実際はどの宗教にも似た哲学思想はあります)。
これの実に深いところは、まず「自分(個)の存在は自分(個)で証明することはできない。周囲の存在によって自分(個)の存在が確認できる。」というところ。
これを日常的な言葉にすれば「周囲に助けられて自分が存在する」または「人は一人では行きてゆけない」などという表現です。
いやいや、「自分は自分だ」という思想では、実は自分の存在を証明しきれないところに突き当たるのです(文法でいう能動態)。
自然はいつも中動です。
天気や地震や台風なんて、いつどこでどのように起こるかなんて、完全に予測をすることは無理なのです。
つまり、「自分だけ」というものは、自分がコントロールできる範囲での視点に他ならないわけです。
よって、自分の思い通りにコントロールできないことに対しては、全てストレスになり得る。
常に人が生きてゆく中では「自分の力ではどうにもならない大いなる力の存在とその作用」が主導的にあるものです。
まさに「アメイジンググレイス」なのですが、この存在は宗教では「神」や「仏」として比喩的に扱われています。
日本の場合の神道は自然信仰ですので、先に述べた「自然の力」を大いなる働きとして、辻褄が合う合理的な思想だなと思います。
更に、それを小さな単位で見てゆくと、例えば歩いている時に、人と人とがぶつかってしまった場合、「あの人が悪い」という「する(能動)」か「される(受動)」ではなく、そこに今自分が居たことに意味がるという捉え方も必要なわけです。
おおよそ、ぶつかったことで「頭にきた」場合、前項でも述べたとおり「感情」として「決めつけ」が発生した状態です。
感情というものは決めつけなければ沸騰できない習性を持っているからです。
「でも、明らかに私は避けているのにも関わらず、あちらは避けもせずにむしろ向かってきた!」と思う気持ちも分かります。
しかし、個別の人ではなくて、全体性の視点が持てれば「地震や台風や大雨」と同じく、「大いなる働きによる結果」という捉え方もできるのです。
この考え方を「犯罪を侵した人が持てるようになった場合、再犯率が低くなる。」という傾向が報告されています。
そういった根拠を持たずしても、これまで経験則で大いなる力を「神」に置き換え、受刑者に信仰を持たせることも行ってきました。
また、日常的に行われているキリスト教の懺悔なんかも合理的な手法でしょう。
「ぶつかられたのにそこまで自分は寛容になれない」と言われる方もおりますが、では次の様に、更に細かな単位で分析をすると、景色も変わってくると思います。
そのぶつかった相手がこういう状態だったらどうでしょう。
「消防から携帯電話に連絡があって、子供が交通事故で轢かれて重体です。今すぐ〇〇病院へ来てください。」ということだったとしたら。
更にぶつかった場所がその病院の最寄りの駅構内。
そう、ぶつかったことには変わりはないのですが、おおよそ頭にきた感情がトーンダウンしてゆきます。
「まぁ・・それでも周囲に気をつけるべきだ」と。
では、真実をもっと探ってみたら、更にこんなことがわかりました。
「轢いた運転手が自分の会社の社員で、ここのところキャッシュレスのポイント還元事業の仕事で、連日残業続きだった。」と。
結局、法的な責任はないにしても、自分の会社のマネジメントができた立場に居た私。
いわば「無関係」でもないことが分かりました。
さて、そこまで分かって「ぶつかられた」と感情を沸騰させたのでしょうか?
むしろ、あらゆる可能性を残したままで「頭にきた」とできる方が凄い!と思いませんか?
急に視点を広げますが、例えばあなたの今吸って吐いた「息」は地球上で無になって消えると思われますか?
これって、見えないだけであって「無」にはならないのです。形を変えても地球上で、いや宇宙全体にしても残って行きます。
それと同じように、人間が人間と関わる上で、その人に与えた自分の印象や、癒し、言葉でも、これは無にはならないわけです。
先に述べたように「自分は周囲の存在によって自分の存在が成り立つ」という考えと同じこと。
つまり、どんな事象であったとしても、自分に起こることは「無」ではない。
ちなみに、「ぶつかられた」という立ち位置を絶対に変えないということは、知らない事実はどうであれ、いわゆる腹の虫がおさまらないというだけでしょう。
この思想の危険なところは、気が済むか済まないかの二択になっている部分。
気が済まない場合、あらゆる手段を持って敵とみなし戦おうとする。
これが歴代人類で行われている戦争というものです。
現状の国際社会にも同じことが言えます。
例えば「日韓の貿易問題」。
お互いに肯定と否定の中心を探ることをしなければ、感情論のみ先に進み「気が済むか気が済まないか」だけのことになってしまう。現状、時代が違えば戦争になっていたかも知れません。
いやいや、相手がおかしいのだという気持ちは分かります。ですが、それだとやはり能動態と受動態の関係にしかなりません。
しつこいですが、再度下記に同じ図を貼り付けておきます。
自分がいくら正しいと思っていても、対する人にも視点と尺度の違う「正しい」はあるわけです。
最初に述べたように、それぞれの経験や置かれている立場が違うから、思想も当然変わるもの。
認め合わなくてもいいし、敵のままでもいい。
だけど、自分の周りに存在する以上は、その存在を肯定しなくてはならないこともある。
私もそう、あなたもそう、「肯定でもあり否定でもある」部分で交われる所を、根気強く探す作業が必要なのです。
昔、ラジオで人生相談の番組があって、それを聞いていたとき、相談者が涙ながらに相手の酷さを主張していました。
っで、この相談者にアドバイスするカウンセラーの方は、どこに重きを置いてアドバイスをするのかと興味深く聞いていたら、殆どは相手についてではなく「自分」の変えられる部分を指摘する。
そして最後に「解決できない悩みは、自分が認めたくない部分を認めることで道が開かれます。」と。
まぁ、残念ながらおおよそはそうなんですよね。
そもそも泣きながら相談している時点で「相手が勝手にぶつかってきた」という決めつけの立ち位置なのですから(感情沸騰)。
人間は大脳新皮質がせっかく発達したのですから、十分に頭を働かせることを怠ってはならないと思うのです。
そういう意味では、司法というものも難しい。
なぜなら、被害者と加害者という2つにしか分けられない、いわゆる「した」か「された」かの能動、受動の舞台と化すからです。
そして、法的な責任は間接的な人を含みずらい。
だからこそ、犯罪を侵す人の「家庭環境や幼少期の発達分析」が進まないのだと思います。
このコンピューター社会でそういった考え方が通じないのが不思議なのですが、脳は単なるPCのハードディスクでしかないわけで、そのオペレーティングシステムは幼少期の環境に多く依存します。
しかし現代では、異常を起こしたPC(犯罪者)は隔離(刑務所に入れる)か廃棄(極刑)するような司法のやり方でしかありません。
一定の刑期を経て、隔離期間を終了しました。
そしてまた社会に出てきます。
これで何か解決しますかね?
ここにも「する」か「される」かの能動、受動の関係しか成立していないのです。
下記は公開されている資料を元に、日本と世界の死刑に関する対比を作成したものです。
全世界195ヵ国
ちなみに現在、司法判決で死刑を執行される存置国は下にある通り。
アフガニスタン、アンティグア・バーブーダ、サウジアラビア、パレスチナ自治政府、バハマ、バーレーン、バングラディシュ、バルバドス、ベラルーシ、ベリーズ、ボツワナ、中国、コモロ、北朝鮮、キューバ、ドミニカ、エジプト、アラブ首長国連邦、アメリカ、エチオピア、赤道ギニア、ガイアナ、インド、インドネシア、イラン、イラク、ジャマイカ、日本、ヨルダン、クウェート、レソト、レバノン、リビア、マレーシア、ナイジェリア、オマーン、ウガンダ、パキスタン、カタール、コンゴ民主共和国、セントルシア、セントクリストファー・ネーヴィス、セントビンセント及びグレナディーン諸島、シンガポール、ソマリア、スーダン、南スーダン、シリア、台湾、チャド、タイ、トリニダード・トバゴ、ベトナム、イエメン、ジンバブエ
ちなみに2018年だけで言えば、執行者の数は日本は世界で第8位の人数。
例えば外務省の渡航危険度レベル4のソマリアよりも多いのです。
いずれも、是非論の話しをしたいのではなくて、どのように幼少期のOSにその問題になる部分を埋め込まずに済むのか。または改善することができるのかという努力と解明を、隔離と廃棄で誤魔化してしまっているのではないかという指摘です。
私は、人生の経験におけるトラウマ的事象が大きく関連しており、それが中動と合致する点があることに興味を持ちました。
こちらで紹介した通り、脳の中心部における原始的な動きはトラウマによって制限されることが分かっています。
これは胎児期の脳の形成段階で初めに起こる、生物としての呼吸であって物理的な動きでもあり、スピリチュアリティーの根源です。
ですから、スピリチュアリティーに妨害をもたらすのはトラウマなどの精神的なストレス。つまり、能動、受動の社会によって起こるのがスピリチュアリティーの妨害というわけです。
それについて、各宗教が中動的思想によって、スピリチュアティーの活動(この脳の中心部の動き)を妨害なく健全にして行こうという着目が驚きなのです。
仏教では既にこの中動は、西暦500年代からあって、当時この胎児期から実際に動いている脳の活動について知っていたとは思えません。
つまり、経験則によって行われていたのだと思います。
日本の伝統工芸は、現代で科学的に調べてみると実に理にかなった合理的手法と分かるように、当時は科学なんてなくても、感覚的に分かっていたのでしょう。
言い換えれば、宗教の思想は「精神の伝統工芸」に近いものを感じます。
*この段階で既に脳の中心部は1分間に13~15回のサイクルで膨張収縮を繰り返している
ヨガや瞑想、各種ボディーワークは外部からこの動きを円滑にさせるように誘導するものです。
ちなみにこの動き、Applewatch みたいなものでいずれ測れるようになると思います。私の手でも感じられる動きですし、実際に手首まで骨の膨張収縮として感じられます。
特許取れるかも?←こんな所で紹介していたら誰かにやられるかも
いや、実際に機械屋さんに相談したら、作れると思いますとのことですが先立つものが・・・。
大学の先生に研究費でなんとかやってよとは伝えてあるもののどうなるでしょうか。
犬や猫でも感じることは可能ですので、物理的に図ることも可能だろうと思います。
スピリチュアリティーの動きを実態として。
最後に、台風が接近しているようですね。
お店を閉店したり、交通機関も計画運休との報道があります。
マスコミを始め、世間の論調では「危機管理としては素晴らしい」「そんな時まで仕事をする方が異常」とのこと。
しかしこれも、そのどこかに否定の部分を持つことができます。その否定する作業によって、「人命を尊重しない時代錯誤」「スポ根かよ」と非難されるかも知れません。
ただ、新たな視点や配慮が生まれます。
例えば、命を預かる医療施設や救急の方々は、どんなに大きな台風や地震が起きようとも、まず第一に自分の病院の患者さんや、これから運ばれてくる重病、重傷者のことを考え、自らに降りかかるリスクを承知で仕事をします。
ライフライン系統や官庁のお仕事だってそうです。
私はそういう方々もいるという現実の中で、「こんな時まで仕事をするな」とは言えませんけどもね。
すみません。ちょっと書きたい事が沢山あって、最終回の整理がしきれません。
なので、余談として更新。
ここのところ、1週間くらい食事を変えています。
朝と夜だけ、自分で作った米麹甘酒と酒粕を豆乳にいれて飲むだけ。
時々豆乳をヨーグルトに変えますが。
たまにタンパク質補給で、冷しゃぶにヒマラヤ岩塩をかけて食べるのみ。
特にお腹も減らないし、苦痛も全然ない。
腸内細菌を変えたら本当に思考や性格に変化が出るものなのか、身をもって試験中(どうしよう凶暴になったら)。
ちなみに、酒粕は毎日摂ると、肌の保水力がわずか3日で見た目でわかるくらい回復するようですが、そっちはあまり興味はありません。
さて、今日は楽しい一日でした。
ず~っと前からいらしているAというかたと、結構前からいらしているBというかたがいます。
Aのかたは約2年程前に、お勤め先の会社を辞めて、違う会社へ転職をしました。
私はそれ程深くは伺っていなかったので、ザックリと何系でどういう事と、何が嫌で辞めたのか程度。
ただ、場所が特殊だったので、その特殊さのあまりにAのかたは辞めるに至ったことだけは記憶していました。
まぁ愚痴みたいなのを聞かされていたんです。
っで、先日は、Bというかたから「○○の空き店舗の経営をお願いされていて、○○◯のすぐ前なんですけども。」と。
まぁ特に興味のある内容ではないのですが、このBというかたは、事細かくお話しして下さる。
実はこのBというかた。結構な古い会社の代を継いでいる社長でして、もう何代目かな?まぁ人脈も豊富。
私よりも一回り近く年上で、いつもあれこれと面白い社会の動きを教えて下さいます。
私は全くの素人なのと、口下手も相まって「へぇ~、凄いですね。」程度しか反応はしないのですが、まぁひょっとしたら、結構な重要な情報を話されているのかも?
一体私に何があるのか分かりませんが、「今度◯◯の社長、先生に紹介しますよ!一緒に飲みに行きましょうよ!」とお誘いを頂く。
私なんて、名刺すら持ち歩かない主義の人ですからね、ご紹介を頂いても、目上の方の名刺だけ貰うような形になりますので、お会いしても失礼になることでしょう。
っで、このBのかたのお話を伺っていると「ん?この特殊性はどこかで聞いた話だな」と思ったら、Aのかたが同じことを言っていたなと思い出しました。
そして、今日はAのかたがいらしていたので、このBのかたの内容をお話しすると「それ私の2年前にいた会社がやっていたところです。しかも私が担当で。」と。
おぉ~!
ということで、何が問題でどういう時にどういう売上になるのかまで、ぜ~んぶ教えてくれました。
そして早速Bというかたにご連絡。
すると「なんですかその先生の情報網は!!」と仰る。
特に私の情報網は極めて小さいし狭いしで、私は何も持っていない。ただピンポイントでそういう人が私の傍にいるだけ。
現に私は何も動いていないし、双方から教えてくれとは言った覚えもない。
でね、私のみならず、きっとみ~んながそれぞれどこかで係わり合っているものだと思うんですよ。
気が付かないだけで。
それが縁ってものでしょ?
例え動物であっても宝石であっても、自分が大事に思うものは。
前世だかなんだか分からないけどもね。
あと、今日は某お偉い大学の先生がいらしていた。
というかいつも来る(失礼か)。
この先生と話しをすると、自分が限界突破できるような気がするし、息継ぎする間もなしに、私の脳内で新しい次元の発見が湧いてくるんです。
自然とそれが、口からドンドンドンドン矢継ぎ早に言葉となって出てくる。
普段は私はめっぽう口下手なのに。
自分でも話している最中は認識があるのですが、それを停めることができないんです。
ただ、その内容がいつも先生にとっても新しい発見になるようで、最後には「ソコとソコの道が繋がっているとは凄い発見!確かにあるかも!今日もありがとうございました。」と、ベットの上で土下座のように礼をされて帰る。
肝心な私が問題。何を話したのか、何で先生がそう仰っているのかあまり覚えていないんです。
まさに中動。
「私の前で、手を付いて頭が下がり、そして頭が持ち上がったら笑顔の人がいる。」
ちなみに、息継ぎをしたら頭に浮かんできた新しい発想が消えてしまいそうで、最大限息が続く限り話すものですから、いつもこの時は、私の手足は酸欠で痺れて感覚が無くなってしまいます。
イタコのセンスがあるかも。
今日の最後の締めは、自宅マンションのエレベーターで、階数ボタンを間違えて押し、気が付かずに降りてしまう。
そして、自分の部屋と同じ位置にある扉の鍵を開けようとするんです。
アレ?アカニャイ・・・。
ふと視線を右上に逸らすと、ん?503?いやいや、階数が2階違うし。
惜しい!
ま、おおよそ2ヶ月に一回程度しかないのでまだ良いのですが、いい加減考え事をすると周りが見えなくなる癖を治したいものですね。
ホテルでも結構あるんですよ。
いやたまにだな。
ホテルってどこも部屋の扉が一緒でしょ?
考えながら部屋に戻ったら、お隣さんの扉にカードキーを入れて、取っ手を下げ、扉をエイっ!と押してもアカニャイ。
あれ?カードが読み込まなかったのかな?と、この繰り返し。
3回目くらいまで「違う部屋だ」と気が付かないんですよね。
はい。悪気はない立派な不審者です。
さて、何やら世間では、歳の差で出来婚のニュースに批判的に群がるネット民が相変わらず異常さを感じる今日この頃です。
誰がどうしたなんて、どうでもいいでしょ。本人同士が納得しているのであれば。
いや、納得していなくても関係ない。
そんなことよりも、アメリカ海軍が未確認飛行物体を本物として認めたことの方がよっぽど興味深い。
っで、世間というものは、常識的な部分から逸脱したものを悪とし、自分は外れていないと信じて止まないもの。
自分の思想と会わない人間を敵であると認識して、感情的に攻撃し始める。
前回取り上げたように、感情が沸騰するということは、つまりは「決めつけ」が発生しているということ。
こういう時に、仮に真逆の事を言ってしまっては集団攻撃をされてしまうものだ。
だけど、私はその習性こそ憎むべき部分であると思うのです。
でなければ、まだまだ日本の根底には戦争に向かう要素を持ち合わせていることになる。
そしてその状態を「AI」が学習をしてしまったら一体どうなりますか?
という想像くらいはできますよね?
っで、その「AI」が今や軍備に参加しているんですよ?現代では。
中動というのは、いわゆる哲学的視点を持つという事に等しい。
自分が正しいと思うことでも、常に正しくないという視点を持って、重なったその真ん中の状態だけ観察するという視点。
そろそろ日本もそういう視点を持ち合わせてもいいんじゃないかな?
敗戦国なんだし余計に。
思考停止じゃなくてさ。











