#555 TVアニメ『まんが日本史14「花ひらく王朝文化-清少納言と紫式部」』 | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

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大河ドラマ「光る君へ」 - NHK』が始まるのでその藤原道長の摂関全盛期の紫式部が活躍時代についての『まんが日本史』をヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想

藤原氏を中心とした上級貴族の平和なときに花ひらいた王朝文化がポイント!

その絶頂にあるのが藤原道長

(『まんが日本史』より、14回のタイトル画面)

 

  レビュー

今回は、前半の主役はこの二人、一条天皇后の中宮定子と定子に仕えた清少納言

(『まんが日本史』より、中宮定子と清少納言)

 

後半の主役は、同じく一条天皇后の中宮彰子と彰子に仕えた紫式部

(『まんが日本史』より中宮彰子と紫式部)

 

前半は藤原兼家の長男の藤原道隆が娘の定子を一条天皇に嫁がせ、男の子が生まれたらその祖父として外戚政治を展開することに期待している様子が描かれます。こういった后たちに仕える女房について、いかに妻女などを集めるかというのが大事らしく、中宮定子には幼いころから秀才として名高く、特に漢詩の才がある清少納言が仕えていました。

(『まんが日本史』 定子の父の藤原道隆、兄の藤原伊周)

 

清少納言の『枕草子』第二八〇段「雪のいと高う降りたるを」にある唐の詩人白楽天(白居易)の「香炉峰の雪」のエピソードも描かれていました。有名なシーンです。

(『まんが日本史』より、宇多天皇 参議に任じられた菅原道真と藤原時平)

中宮定子のサロンは、明るく知的に富んでいたのが特徴的なサロンで、そこで清少納言の漢詩をはじめとする文学的才能が大きく貢献し、中宮定子からその当時は大変貴重な”紙”がプレゼントされ、それを使って清少納言は『枕草子』を書いていきます。

 

しかし、ここで中宮定子の時代が暗転します。父の道隆が亡くなり、疫病がはやる中で道隆の次に関白となった道兼(道隆の弟)も病没、次々と上級貴族が亡くなり、一条天皇の下で政権を担うものとしては道隆の弟の藤原道長と道長の子の藤原伊周の叔父と甥の対立となります。

 

ここで大きな働きをするのが、藤原道長の姉にあたり、一条天皇の生母の皇太后詮子でした。

(『まんが日本史』より、子の一条天皇に道長を関白にと迫る詮子と藤原道長)

この作品の道長は、豪放磊落で傲慢な雰囲気の道長として描かれています。

 

詮子は一条天皇に藤原道長を関白にと迫って飲ませます。といっても道長はこのとき関白になっていないのですこし違うんですけども、、、実際には”文書内覧”を担当することになり、左大臣として会議を取り仕切るんですが、そこらへんは描かれていません。

 

この作品では、この道長の謀略で、中宮定子の兄の伊周を九州の大宰府に流します。その理由としては2つ

 ①花山法王に矢を射かけたこと

 ②一条帝の母の皇太后詮子を呪詛したこと

どちらもエピソードの内容は描かれることなく、その理由のみで退場となります。父道隆を病でなくし、兄の伊周は遠流と中宮定子は悲嘆にくれることになります。この時代の后たちにとってその実家の力が大事なので、中宮定子にとっては後ろ盾を失ったことになります。

 

一方の道長は、娘の中宮彰子を一条帝に嫁がせて男の子を生んでくれることを期待します。その中宮彰子のサロンを中宮定子に負けないものにするために、清少納言に負けない才女を女房として入れたいと考えたところで白羽の矢が立ったのが藤原為時の娘の紫式部でした。

 

『源氏物語』を執筆していることで名を馳せていた紫式部が中宮彰子のサロンに女房として使えることになります。

(『まんが日本史』より、中宮彰子に学問を教える紫式部、藤原道長と紫式部)

印象的だったのが、中宮彰子が紫式部に清少納言のことを話すと

「清少納言の評判は聞いているが、学問は人に見せるためのものではない」

と批判めいた回答をすることです。

 

『紫式部日記』では批判めいたというよりもむしろ”筆誅”と言っていいくらいに強烈な批判を書いていますが、こちらではそれからすると結構穏当な感じです。
 

藤原道長と紫式部には、恋の短歌のやり取りがあるのですが、そちらは描かれていませんが、紫式部の文才を大きく評価している道長が描かれています。

 

一条天皇の后の中宮彰子に待望の男の子が生まれ、一条天皇(1014年死去)→三条天皇のあと、1016年の三条の退位により、その子(道長の孫)の後一条天皇が9歳で即位し、道長は摂政になり、1018年には道長の娘、威子が後一条の中宮となり、娘3人が中宮ということで、道長が我が世の春を謳歌することになります。

(『まんが日本史』より、孫の後一条天皇、娘3人が中宮となって大笑いする道長)

 

めでたい宴で満月を見ながら、藤原実資らを従え、ご満悦に歌を詠います。それが

 

 この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば

(『まんが日本史』より、満月とそれを見ながらご満悦に歌を詠む道長)

この番組での解説としては

この世のすべてが、まるで自分のもののように思えます。欠けたところのない満月のように私の心はまんぞくしている

とされ、傲慢全開となっています。

藤原実資らはなんと傲慢なと思いながら、返歌を求められてこんな素晴らしい歌には返せないから皆で一緒に詠って味わおうと阿諛追従を述べます。

 

この時代の評価として

藤原氏の摂関政治の間は、ともかく平和で、一つの文化(王朝文化)が見事に花ひらいた。でも、それはほんの一握りの貴族のためだった

 

と批判も含めた評価となっています。実際にこの時代は疫病も幾度も流行ってますし、基金も発生しているので、確かに京の一部だけ(上級貴族)の平和ともいえるのかもしれません。

 

国風文化が花ひらく

親子パートとしては、遣唐使などによる大陸文化の導入を続けていた日本が、ようやく日本独自の形として育って花ひらいた文化が、国風文化であると表現しています。

 

絵なら、大和絵で、例として鳥獣戯画が挙げられていました。あと和歌も日本的に

ひらがなも、この頃に漢字を崩して優しい形になって成立し、仮名文字によって、清少納言や紫式部ら女性が日記や物語を執筆したとのことです。

 

その理由としては、遣唐使の廃止もあるが、貴族階級が文学・美術に目を向けたためと述べられています。

 

これを可能とした要因が、地方で新田開発が進む中、それを荘園として吸収することで国に税を上げる代わりに私物化することで可能になったことも説明されていました。

 

同時代頃の世界史

中国では、唐が滅亡して、五代十国時代を経て、趙匡胤が宋を建国して宋王朝時代になったこと

(『まんが日本史』より、宋を建国した趙匡胤)

ヨーロッパでは、東フランク王国のオットー1世が教皇ヨハネス12世から帝冠を受け、ローマ教皇の守護者として神聖ローマ帝国が始まったこと

 

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