北条時政・北条政子・北条義時の親子で確立した幕府の権力
1199(建久10)年、落馬が原因で亡くなった源頼朝、今回はその頼朝亡き後の鎌倉幕府が源氏からその配下の御家人の北条氏の執権体制で権力が確立する様が描かれます。
今回の主人公はこの二人+北条時政といえます。
(『まんが日本史』より、北条政子と北条義時 どちらも時政の子)
(『まんが日本史』より、北条時政)
頼朝が亡くなり、源頼家が将軍となりますが、若いために北条時政を中心に有力御家人13人による合議体で政治を取ることを決めます。
(『まんが日本史』より、源頼家)
源頼家は合議制について母の北条政子より聞かされますが、自分が将軍であると大いに怒り、自分が政治を行うとしますが、その行った政治は領地争いについても適当に線を引いて決めたり、多くの領地をもつ御家人の一定の広さ以上は召し上げるということをやろうとしたりして無茶な政治をする姿が描かれ、このままいくと暴君に・・・と
そのひどさを大江広元は北条政子に伝え、北条政子は源頼家を引退して伊豆の修禅寺に流します。のちに頼家はそこで殺されることになります。
(『まんが日本史』より、源実朝)
次に将軍になったのは頼朝の子の実朝でした。
面白いのはそのときに鎌倉の庶民に将軍になったのは実朝だけど、実朝ではなく北条家が、北条政子が実質将軍で尼将軍と語らせていることでした。
実朝については、幼くして将軍となるも実権は北条義時が握っていたため、政治よりも好きな和歌や蹴鞠の道に打ち込んでいく人物として語られます。
ここで、北条政子と義時の父の時政が暴走します。時政は頼家時代に頼家の妻の実家の比企氏を、続いて畠山重忠も滅ぼしと有力御家人を潰していきますが、後妻の牧の方の願いで実朝を殺害することを企てます。それを知った北条政子と義時は御家人たちを自分らにつけて、父の時政を伊豆に隠居させて鎮めます。
(『まんが日本史』より、三浦義村 実朝らの殺害を実行しようとする公暁ら)
鎌倉幕府の政治は、北条義時を頭とした体制に変わります。この義時も和田義盛を滅ぼすことで、執権体制を築くことになります。和田義盛も滅ぼしと、三浦一族の三浦義村も次は自分たちが狙われるということで、三浦義村は殺された頼家の子の公暁を焚きつけて、実朝の右大臣拝賀の式の鶴岡八幡宮の詣での時に、同行する北条義時と共に殺害させようとします。義時はそれを察知してギリギリで体調を崩した振りをして難を逃れます。公暁は実朝の首を取って逃亡しますが、義時を殺害できなかったことをしった三浦義村は義時に公暁の居場所を伝えて討たせることで自らの危機を脱します。
ここに源頼朝以来の源氏直系の血が途絶えてしまいます。
この理由について
源氏が三代で途絶えた理由
①頼朝が弟の範頼や義経を消してしまい、頼家らを支える源氏の一族がいなかったこと
②有力御家人の権力争いに巻き込まれてしまったこと
が挙げられていました。
鎌倉は京の後鳥羽上皇に子どもを将軍として迎えたいと願い出ます。
(『まんが日本史』より、後鳥羽上皇と三浦義村の弟の胤義)
鎌倉の不安定さを知った後鳥羽上皇は断り、三浦胤義は兄の吉村などにも働きかけ、打倒鎌倉の兵をあげるべきことを提案して動きます。
ここで勃発するのが、1221(承久3)年5月の承久の乱です。
(『まんが日本史』より、承久の乱と演説する尼将軍の北条政子)
北条義時らも朝敵になってしまうという思いもありましたが、このままでは滅ぼされてしまうので戦うことを決意し、北条政子が鎌倉に集いし御家人らに武士の世を実現した頼朝のその恩を解くことで御家人をまとめることに成功して、朝廷軍に勝利を収めます。後鳥羽上皇は沖に流されることになります。
承久の乱の3つの大きな意味
お母さんが子ども達二人に最後に語るパートでは、承久の乱についてでした。
承久の乱の三つの大きな意味
①幕府の力が朝廷の力より優れていることを証明
②西と東の対立で、東が勝ったことで幕府が日本全国を支配することが確定
③北条氏に不満を持っていた御家人らに西国の土地を与えて不満をなくしたことにより、北条の執権政治がますます強くなったこと
を挙げていました。
同時代頃の世界史
(『まんが日本史』より、オゴタイ・ハン)
チンギス・ハンのあとを継いだオゴタイ・ハンが、モンゴル帝国の都としてカラコルムを築いたこと
(『まんが日本史』より、ゴシック建築の教会)
ヨーロッパでは、ロマネスク様式からゴシック様式の建物が立てられるようになったこと
が同時代の出来事として挙げられていました。