大河ドラマ『どうする家康』で秀吉臣従後に駿府城に移動した家康。その駿府普請に駆り出される家臣の苦労を『家康家臣の戦と日常 松平家忠日記をよむ (角川ソフィア文庫)』で見ていきます。
都合、五度に渡る普請
家臣の苦労も大変です。
(NHK大河ドラマ『どうする家康』での小牧山城の城普請の様子(C)NHK)
何度も何度も城普請の松平家忠
1586(天正14)年12月4日、家康は正式に駿府城に入城します。
1585(天正13)年8月から駿府普請は行われていましたが、秀吉が不快の感を示したので小規模な普請に留まっていました。家康の上洛で秀吉との関係が安定した結果、駿府城の大規模普請が始まることになります。
一度目の駿府普請(1587年1月~4月)
1587(天正15)年1月21日、酒井忠次から家忠は駿府普請を命じられます。
1月26日、家忠は深溝城を出発。2月1日に駿府城の家康の許へ出仕
二の丸の堀の修築や、石垣積み作業を行います。
3月28日、酒井忠次が大坂から駿府に戻ってきて、家忠は上方土産をもらいます。
このとき、家忠は酒井忠次から大坂で、秀吉の命により出仕していた真田昌幸・小笠原貞慶と同席したことを聞かされます。
真田昌幸は家康と敵対していましたが、1586年12月に秀吉により赦免され、家康配下の大名とされて、家康の信濃国支配がようやく安定することになります。
4月25日、家忠の1回目の駿府普請が終わり、深溝城に戻ります。
この間に、家康は秀吉の九州征伐の成功を祝うために上洛したことや、家康が大納言に昇進したことが記録されています。
二度目の駿府普請(1587年10月~11月)
9月17日、酒井忠次より来月1日に駿府普請の再開を命じてきます。
9月26日、家忠は深溝城を出発し、27日に駿府城に到着。
10月4日、家康から初雁と初鮭の振舞を受けて、駿府普請を再開します。
今回は、堀や石垣普請を行いました。
10月26日、11月7日、家忠は駿府滞在用の屋敷を建て、完成後に居住します。
11月31日、二回目の普請が終わり、深溝城へ戻る。
ちょうどどこのころ家康は鷹狩で三河国へ来ていた。
12月9日、家忠は家康から西尾での鷹狩の獲物の雁を下賜される。
度重なる駿府城の普請、まだまだ続くとの想定で、松平家忠は今後の駿府普請対応のために屋敷を築いています。
三度目の普請(1588年2月)
1588(天正16)年
1月5日、酒井忠次から15日までに駿府普請に来るように命じられます。
1月7日、吉田城の酒井家次(忠次の子)より、普請延期が伝えられます。
1月28日、家忠は深溝城を出発、2月1日に駿府城の到着。
2月2日から三回目の駿府普請を開始。
石垣の受け取りや本丸の堀底を深く掘り下げる作業を行います。
2月8日、「御鷹之雁」の下賜、14日に「御鷹之鶴」の振舞を家康より受けます。
2月26日、家康から前年に借りていた米三百俵の返済を免除されます。
その一方で、兵糧米二百俵を相良で借り、それを駿府に運ばせたます。
※駿府普請中の領内の百姓の人夫として動員しているので、その人夫が駿府にいる家忠の家臣団への兵糧米を確保した可能性が高いそうです。
主君の家康から米を借りながら対応していた松平家忠、その家康からの借りは免除されますが、一方でまた米を借りるなど普請に駆り出され続ける松平家忠の苦しい状況が分かります。
三度目から四度目の間に、3月1日、家康が後陽成天皇の聚楽第行幸に参加するために、3度目の上洛のため駿府を出発し、4月27日にそれが終わって家康が駿府城に戻ってきたこと、この間に
秀吉は家康に茶の名器を贈ったことや従来、秀吉は鷹狩に熱心でなかったが、家康と同行して鷹狩を行い、この頃から鷹狩を好むようになったことが記録されています。
四度目の普請(1588年5月)
1588(天正16)
5月12日、家忠は家康から駿府城の天守の材木の手伝普請を命じられます。
ついに駿府城の天守づくりが始まります。
5月14日、普請が終了し、16日に家忠は深溝城に戻ります。
五度目の普請(1589年2月~4月)
1589(天正17)年
1月28日、家忠は駿府普請のために深溝城を出発。翌日、久野で鷹狩をしている家康と対面し、その翌日に駿府に到着。
2月3日、石垣普請を開始します。
2月5日、大地震が発生し、駿河国東部にある興国寺城・長久保城・沼津城などが損害を受けてしまいます。
4月10日、松平家忠は普請が終了して深溝城に戻ります。
4月29日、駿河城普請奉行から石垣が崩れたので早々に来ることを命じられますが、家忠はこの命令にすぐには応じず、5月10日になって人だけを派遣して対応します。
3年間に5度の普請で、米を借りてまで対応している松平家忠ですが、6度目となる命令にはなかなか応じず、人を派遣するだけで済ませるなど、度重なる普請に正直嫌気がさしているのではないかと推測させる対応です。
恐らく他の家臣らもこの普請に駆り出され続けて疲弊していたのではないかと思われます。
(NHK大河ドラマ『どうする家康』の於愛、9月24日の放送の中で死去(C)NHK)
この後、5月21日の日記には、5月19日に於愛の方(西郷の局、秀忠の生母)が死去したという知らせがつき、家忠はその「とぶらい」のために駿府城に行くことになります。
(徳川家康と松平家忠の系図 著者作成)
『松平家忠日記を読む』の紹介ブログ記事