#419 TVアニメ『まんが日本史「鎌倉幕府の成立-武家政治と封建制度』の感想 | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

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子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の頼朝と義経の対立と鎌倉幕府成立についてヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想
 

ついに武家政権の支配が本州・四国・九州に行きわたる画期
鎌倉幕府の成立

 

(『まんが日本史』より、タイトル画面)

  義経・後白河法皇・奥州藤原氏・範頼が消え、頼朝も・・・

1185(文治元)年6月、兄の頼朝に鎌倉入りを断られ、兄頼朝の誤解を解くために腰越にて有名な”腰越状”を書いて大江広元を通して提出するも受け入れられず、怒りをもって京に帰った義経のその後から始まる今回の話。

 

今回のメインは鎌倉幕府成立ですが、それに大きな役割を果たすのが、知恵袋の大江広元と北条政子の父の北条時政で、今回はこの2人が両輪の活躍を見せます。

(『まんが日本史』より、大江広元と北条時政)

 

その京に頼朝は土佐坊昌俊を頼朝殺害のために仕向けます。義経はこれを撃退して頼朝と戦うことを決意して、後白河法皇に頼朝追討の院宣を出させます。

(『まんが日本史』頼朝追討の院宣を求める義経とその後西国落ちをはかる義経)

しかし、兵があまりに少ないので、弁慶らの主従と共に西国で再起を図ろうとしますが、暴風雨にあい船が戻されてしまって失敗し、吉野に逃れます。

 

変わって入京した鎌倉方の北条時政は、頼朝追討の院宣を出した後白河法皇を難詰して、義経追討の院宣を出させます。

 

この吉野にて義経は静御前と別れます。静御前は義経が京に戻るためにつけたものの裏切りに会い鎌倉方に捕らえられて、鎌倉に送られます。

(『まんが日本史』より、鶴岡八幡宮で義経への恋心を歌って舞う白拍子の静御前)

静御前は、頼朝と政子夫妻や関東御家人が見守る中で、その京一の白拍子の腕前を、義経への恋心を歌って披露します。頼朝は激怒しますが、義経最愛の人の静御前のその意地が見られます。

実は静御前はこのとき義経の子どもを身ごもっていましたが、出産したときに男の子だったので、海に沈められてしまう悲劇に会います。

 

吉野から逃避行に入った義経主従一行は、安宅の関で、後世の作なので実際にはここまで大げさなやりとりはなかったと思いますが、”勧進帳”が繰り広げられ、奥州平泉に逃れます。

(『まんが日本史』より、安宅の関の”勧進帳”)

 

義経逃亡をチャンスと見て、知恵袋の大江広元は頼朝に、義経追捕を名目に全国の守護・地頭の設置を後白河法皇に働きかけて1185年に実現させます。実権を次々ともぎ取られていきます。

※今ではこの全国の「守護・地頭」の設置を鎌倉幕府成立としています。

 

奥州藤原氏、三代目当主の秀衡は快く義経を迎えます。1188(文治4)年に義経が奥州にいる情報が鎌倉に伝わります。

(『まんが日本史』より、藤原秀衡)

ここでも知恵袋の大江広元が義経を匿っている奥州藤原氏攻めを主張する頼朝に、戦の天才の義経と奥州藤原氏が手を結んではやっかいなので、圧力をかけて揺さぶります。三代目の藤原秀衡は相手にしませんでしたが、死後の次の四代目の泰衡は圧力に屈して義経を討ち果たします。

 

その奥州藤原氏も、1189(文治5)年、鎌倉幕府によって滅ぼされてしまいます。頼朝は後白河法皇からは奥州藤原氏追討の院宣をもらうことはできませんでしたが、武家政権の力を示すことから、院宣のないままに強行して奥州藤原氏を滅ぼし、これによってついに本州の北の端から、九州・四国にまで武家政権の支配力が初めて及ぶことになる画期となります。

 

知恵袋の大江広元とともに鎌倉幕府の実質の陣容を整えていく頼朝、後白河法皇は頼朝に対して自分が生きている限りは征夷大将軍には任じないと、そんなことをしたら頼朝が好きなように軍を動かしてしまうと抵抗します。

(『まんが日本史』より、形を整える鎌倉幕府)

 

そんな後白河法皇も1192(建久3)年3月に亡くなり、後鳥羽天皇によって源頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府を開設します。

※私が子どもの頃、このマンガの初放映時は、この1192年が鎌倉幕府成立の年と扱われていました。

 

その後は、平家追討の功のあったもう一人の弟である蒲冠者こと源範頼も、1193(建久4)年に自らの発言から謀反を疑われて、頼朝に排除されてしまいます。

 

頼朝は鎌倉幕府をさらに盤石にするため、大姫を天皇の后にしようと動きますが、この悲劇の姫の大姫は病死してしまい、その願いもかなわず、それならともう一人の娘の三幡を后にしようと考えます。坂東で京とは距離を離れながら武士政権を実現した頼朝のこの京との関係を深めようとする姿勢に妻の北条政子は頼朝の武士的な存在から変化したと危惧を表します。その危惧から1198(建久9)年12月下旬の頼朝の落馬事件へと場面が転換し、翌1199(建久10)年1月に頼朝が亡くなって話が終わります。

 

封建制度の説明

最後のお母さんと子どもたちの会話の所では、鎌倉幕府の成立の過程で出来上がった制度として「封建制度」が説明されていました。

頼朝(将軍)が、御家人らの土地の権利を守り、手柄を立てたら恩賞として土地を与える(御恩)

御家人は、土地の権利を守ってもらい、手柄を立てたら土地がもらえるかわりに、幕府に何かあったら戦って手柄を立てる(奉公)

という関係が日本の封建制度であり、その関係性が江戸幕府まで続くという説明がなされていました。

 

同時代頃の世界史

(『まんが日本史』)

東アジアでは、モンゴルにチンギスハンが現れて、モンゴルを統一して、のちに大帝国を建てていくという流れの始まり

 

(『まんが日本史』)

ヨーロッパでは、この時期頃から各地にキリスト教の教会が建設され、この時代に成立した美術や建築様式としてロマネスク様式というそうです。

 

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